1976年から2019年までの「その年」の音楽シーンを象徴する名曲を収録した、Spotifyによるプレイリストシリーズ『スローバックTHURSDAY』。全100曲で構成される各プレイリストには、当時の世相や流行とともに解説した音声コンテンツも収録されており、音楽とともにそれぞれの年を追体験できる内容となっている。
そんな『スローバックTHURSDAY』と連動した連載コラム。第3回は、いまから40年前の「1983年」を音楽評論家の高橋健太郎が振り返る。『MTV』の影響により国内でも洋楽が大ヒットしていた当時、音楽ライターとしてキャリアをスタートしたばかりの高橋はどんな音楽に胸を震わせていたのか。書き手の個人的なリスニング体験から「時代の空気」を浮かび上がらせていく。
マイケル・ジャクソンの『Thriller』がリリースされた1983年、日本で一番売れたアルバムは何?
1983年に日本で一番売れたアルバムは何だったか知っているだろうか?
これは映画『フラッシュダンス』のサウンドトラックだった。セールスは100万枚を超えた。洋楽がこんなに売れたのだ、それも映画のサウンドトラックが。CDではなく、まだLPレコードの時代である。50世帯に一枚くらいは『フラッシュダンス』のLPがあったというのは、レコードプレイヤーがある家など稀な現代から見ると、信じられないかもしれない。
『フラッシュダンス』のなかからの最大のヒット曲はアイリーン・キャラの“What a Feelin'”。彼女はそれまで無名で、その後もほとんどヒットは出していない。“What a Feelin'”のヒットの要因は映画と、その一部を使ったプロモビデオとの結びつきだった。
アイリーン・キャラ“What a Feelin'”を聴く(Spotifyを開く)
1981年にアメリカで『MTV』がはじまり、ミュージックビデオの時代がやってきていた。1982年の暮れに発表されたマイケル・ジャクソンの『Thriller』もミュージックビデオが人気爆発して巨大なヒット作となったアルバムだ。
『Thriller』は日本では1983年のアルバムセールスの6位である。2位はフリオ・イグレシアスの『Momentos(旧邦題:愛の瞬間)』(※)。制作費のかからない洋楽のレコードがミュージックビデオの力でヒットしてくれるのだから、レコード会社は儲かる。
※リリースは1982年、邦題はのちに『黒い瞳のナタリー』となった
マイケル・ジャクソン“Thriller”(Spotifyを開く)
『MTV』と同じ年にはじまった小林克也司会のテレビ番組『ベストヒットUSA』(テレビ朝日)が洋楽ヒットを生む原動力となり、英米のロックアーティストのお茶の間進出が勢いづいていた。
デヴィッド・ボウイの『Let's Dance』、Culture Clubの『Colour by Numbers』、The Policeの『Synchronicity』などなど、ミュージックビデオの記憶と結びついたこの年の洋楽のヒットアルバムは数え出すとキリがない。
デヴィッド・ボウイ“Let's Dance”(Spotifyで聴く)
Culture Club“Karma Chameleon”(Spotifyで聴く)
The Police“Every Breath You Take”(Spotifyで聴く)
LAでR.E.M.を観た翌日にU2のライブへ。『フラッシュダンス』のヒットの恩恵は駆け出しのライターにも
僕は当時27歳。前年に音楽雑誌の編集の仕事を辞めて、完全フリーになった駆け出しの音楽ライターだった。『フラッシュダンス』の大ヒットはそんな僕にも恩恵を与えた。配給のポリスター・レコードが海外取材に連れて行ってくれたのだ。アルバム『WAR』をリリースしたU2のツアー取材だった。
U2『WAR』を聴く
初めてのロサンゼルスだった。着いたその晩に文通していたアメリカ人の音楽ライターに電話すると、「これからバンドを観にいくから来ないか?」という。
「何てバンド?」
「Rapid Eye Movementというサイケデリックなバンドだよ」
知らなかったが、行かない理由はない。深夜のドライブでマジック・マウンテンという遊園地に向かうと、その小劇場でギターバンドが演奏していた。客は15人くらいだったが、それがデビューアルバム『Murmur』を発表したばかりのR.E.M.だった。
LAに着いたその晩にR.E.M.を観て、翌日にはU2を観た。その後にはNew Orderも観た。『フラッシュダンス』のお陰で、駆け出しの音楽ライターがそんな経験ができたのだ。
R.E.M.の1983年のライブ映像
New Order“Blue Monday”(1983年)を聴く
ハリウッドの丘の上のチャイニーズレストランで開かれた『フラッシュダンス』のヒット祝賀会にも出席させてもらった。食事のテーブルを囲んだなかには、プロデューサーのフィル・ラモーンもいた。隣に座ったMGM映画の重役から「今晩うちに遊びに来ないか?」としつこく誘われ、電話番号を渡された。「行けばハリウッドの豪邸ライフがはじまるかもよ?」と先輩の評論家に冷やかされた。
1ドル200円台、ファックスすらない時代に、ニューヨークに飛んで体感したヒップホップの熱
インターネットのようなものはまだ影も形もなく、海外の情報をいち早く知るには輸入盤を買ったり、海外の音楽雑誌を読んだりするしかない時代だった。海外に飛んで、現地のシーンを体感したくても、当時はまだ1ドルが200円台。ニューヨークまでの格安往復チケットが30万円もした。しかし、先輩のライター達を出し抜くには、そこに金を使うしかない。
1982年の夏に僕はニューヨークとジャマイカに旅行。1983年の夏にもニューヨークに長く滞在した。幸運なことに1982年にはAfrika Bambaataa & Soulsonic Forceのライブを観た。ステージの上でレコードを回している奴がいる。そんな光景を観たのは初めてだった。ヒップホップという文化はまだほとんど日本には輸入されていなかったからだ。
1983年の夏に再訪したニューヨークではもうヒップホップが人気爆発していた。Afrika Bambaataaの主宰するパーティーがロキシーというメジャーなディスコで毎週開かれ、スノッブな白人が詰めかけていた。日本でヒップホップが一般に知られるようになったのも1983年で、これも最大のきっかけは映画『フラッシュダンス』だった。映画中に主人公のダンサーが路上の子どもたちのブレイクダンスを見て、刺激を受けるシーンがあるのだ。
同年秋に映画『ワイルド・スタイル』が公開され、そこに出演したダンスチーム、ロックステディクルーが来日。日本へのヒップホップカルチャーの輸入はブレイクダンスとグラフィティアートが先行する形ではじまった。ラップミュージックが浸透し、日本人のラッパーが登場するまでには、もう少し時間を要した。
映画『WILD STYLE』トレイラー映像 / 関連記事:名作『ワイルド・スタイル』から紐解く日本のブレイクダンス史。パリ五輪でメダル期待の選手も(記事を開く)
細野晴臣や大瀧詠一、松本隆がヒット曲を量産。はっぴいえんどに憧れたかつてのロック少年の心境は?
フリーのライターになった僕は徹夜で原稿を書いては、編集者に届けに行くような日々を送っていた。メールはおろかファックスもない時代だったからだ。原稿は手書き。締め切り日に書き終わらず、編集部の机を借りて、書くことも多かった。いまでは存在しないジャンルの雑誌の編集部に通っていたことを思い出す。FM雑誌だ。
東京にはFM局がNHK FMとFM東京の2つしかなかったのに、なぜかFM雑誌は4誌もあり、しかも週間だった。そのうちの2誌でレギュラー仕事をもらえたので、それだけで結構な量の原稿を書いていた。
J-POPという言葉はまだなかったが、FM雑誌が多く扱うのは洋楽と「洋楽的な日本のポップス」だった。1970年代に登場したロックやポップのアーティストが作家としてアイドルに曲を提供するようになり、歌謡曲の世界も急激に洋楽的な色を帯びるようになっていた。1983年の邦楽のヒット曲には、そうした作家たちの良質な楽曲が並ぶ。
象徴的なのは松田聖子のヒット曲で、“秘密の花園”“瞳はダイアモンド”は松任谷由実、“天国のキッス”“ガラスの林檎”は細野晴臣が作曲した。作詞はすべて松本隆だ。
松田聖子“瞳はダイアモンド”を聴く
松田聖子“ガラスの林檎”を聴く
大瀧詠一は松本隆とのコンビで、薬師丸ひろ子に“探偵物語”とそのカップリング曲“すこしだけ やさしく”を提供。はっぴいえんど人脈がアイドル歌謡と結びつき、ヒットチャートを席巻するのを僕は不思議な気分で眺めていた。高校1年のときにはっぴいえんどを聴き、バンドをやろうと思い立ったロック少年は、ロックと歌謡曲は対極にある存在と思っていたからだ。
薬師丸ひろ子“探偵物語”を聴く
細野晴臣がはじめたもともとはテクノインストゥルメンタルグループだったYellow Magic Orchestra(YMO)が、紆余屈折の果てに歌謡性の高いアルバム『浮気なぼくら』を発表したのも1983年だ。ヒットした“君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)”のビデオで可愛いおじさんを演じる彼らの姿は、僕には居心地が悪かった。
YMO“君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)”(Spotifyで聴く)
山下達郎や角松敏生ら、のちに「シティポップ」と呼ばれる音楽の登場をどう見ていたか
1983年の僕のライターとしての大きな仕事は、『宝島』誌に掲載された山下達郎のロングインタビューだろう。1974年にまだ客が4人くらいしかいなかったシュガー・ベイブのライブを観て以来のファンだった。この年、山下達郎はアルバム『Melodies』を発表。あの“クリスマス・イヴ”を含むアルバムだ。音楽雑誌の年間ベストテンに選んだと記憶する。
山下達郎が人気爆発し、いまで言う「シティポップ」(※)の全盛期だったが、当時の感覚としては、ソウルミュージックの影響を受けた日本のアーティストがようやく増えてきたと思っていた。角松敏生や大沢誉志幸が頭角を表していたし、シャネルズがラッツ&スターと名前を変えて再デビューしたのもこの年だ。インタビューで山下達郎が鈴木雅之のボーカルを称えていたのを思い出す。
サザンオールスターズはこの年、特大のヒット曲はなかったが、アルバム『綺麗』からのシングル“Emanon”が彼らにしては洗練味のあるソウルっぽい曲で、僕は大好きだった。
※関連記事:シティポップの世界的ブームの背景 かれらの日本という国への目線(記事を開く)
サザンオールスターズ“Emanon”を聴く
角松敏生がプロデューサーとして関わった杏里が大ヒットを放ったが、角松のつくるサウンドは同時代のソウルやファンクにいちはやく反応した感覚を持っていて、ニューヨークでのヒップホップ体験以後、ブラックミュージックにめざめた僕の興味とも重なりあった。
仕事は英米のロックに関することが多かったが、ファンク、ヒップホップ、レゲエなどのダンスミュージックに強烈に惹かれていく自分がいた。
角松敏生が作詞・作曲・編曲を手がけた杏里“Remember Summer Days”(1983年)を聴く(Spotifyを開く)
ラッツ&スター、大沢誉志幸をデビューさせた「エピック・ソニー」はこの年、大江千里、ストリート・スライダース、GONTITIなどもデビューさせている。
洋楽でマイケル・ジャクソンとフリオ・イグレシアスを売り、邦楽の新人育成に資金投入して、1980年代のエピック全盛期の布石をつくった時期だった。音楽ライターから見ても、「エピック・ソニー」は話題づくりが上手く、社員にもおもしろい人材が多かった。
ラッツ&スター“め組のひと”(1983年)を聴く
大沢誉志幸“そして僕は途方に暮れる”を聴く
あのころは夜の街では仕事と関係なく、同世代の業界の友人たちと一緒に遊んだ。男女のカップルも生まれて、サークルみたいな雰囲気だった。
レコード会社の集中する青山や原宿や六本木近辺で夜遊びするなかでも、ダンスミュージックへの興味が膨らんでいった。レコード店では12インチシングルを買いまくる。東京のクラブカルチャーやDJカルチャーが発火するのは1、2年後だが、「ピテカントロプス・エレクトス」(原宿)や「レッドシューズ」(西麻布)や「トミーズ・ハウス」(西麻布)といった場所では、その萌芽が見えていた。わくわくしながら、薄暗いアンダーグラウンドへの階段を下っていく。個人的には1983年はそんな時期である。
しかし、当時のヒット曲のリストを眺めて、あらためて思うのは、レコード業界がいまでは考えられないほどの好景気に湧いていて、だからこそ、アンダーグラウンドに何かを掘りにいく余裕もあったということだ。若いライターの友人に話すと、妬まれるような時代かもしれない。
Spotifyの公式プレイリスト『スローバックTHURSDAY:1983年のヒット曲』を聴く