まだ「よりよい未来」が待っていると無邪気に信じることができた1993年。音楽は何を映しとっていた?

1976年から2019年までの「その年」の音楽シーンを象徴する名曲を収録した、Spotifyによる新たなプレイリストシリーズ『スローバックTHURSDAY』が、今年6月より公開されている。全100曲で構成される各プレイリストには、当時の世相や流行、楽曲やアーティストにまつわるエピソードなどを解説した、FM COCOLOのDJ野村雅夫による音声コンテンツも収録。音楽を楽しみながら、それぞれの年を追体験できるユニークなコンテンツだ。

そんな『スローバックTHURSDAY』と連動した連載コラムをKompassで始動。記念すべき第1回は、いまから30年前の「1993年」にライターの黒田隆憲が焦点をあて、この年に国内外で何が起きていたのか、そこではどんな音楽がシーンを賑わせていたのか、書き手の個人的なリスニング体験から「時代の空気」を浮かび上がらせていく。

プレイリスト『スローバックTHURSDAY』の一覧

「よりよい暮らし」「よりよい未来」が待っていると無邪気に信じられた1993年

その日は雨が降っていた。

いまから30年前の6月9日水曜日。皇太子徳仁親王(今上天皇)と小和田雅子さんによる「結婚の儀」が執り行なわれたことで祝日となったこの日、当時サラリーマンだった僕はたしか新宿の映画館で過ごしていた。

朝からあいにくの雨だったが、夕方に映画が終わり外に出ると薄日が差し込んで、雨に濡れた道路をキラキラと輝かせている。道ゆく人々がみな立ち止まり、新宿アルタのモニター(新宿アルタビジョン)を見上げていることに気づきそちらに視線を移すと、オープンカーに乗った雅子さんの輝く笑顔と、それを隣で見つめる皇太子殿下の表情が大きく映し出されていた。

多くの群衆とともに、そんな光景を見たときの「高揚感」を、いまでもはっきりと覚えている。別に取り立てて皇室に興味があったわけではないのだが、雨上がりの都心を人々に祝福されながら、幸せいっぱいの表情で手を振る2人の姿が、社会人1年目で余裕のない毎日を過ごしていた自分の心に、温かい火を灯してくれたような気がした。

『スローバックTHURSDAY: 1993年のヒット曲』を聴く

Spotifyの公式プレイリスト『スローバックTHURSDAY: 1993年のヒット曲』を聴きながら真っ先に思い出したのは、そんなシーンだった。

ベルリンの壁崩壊やペレストロイカによって「冷戦」が終わり(とされ)、阪神・淡路大震災も地下鉄サリン事件も、神戸連続児童殺傷事件も起きる前。バブルは弾けたが、まだ本格的な不況が訪れる前の1993年は、まだ日本も世界も「よりよい暮らし」「よりよい未来」が待っていると無邪気に信じていた人が多かった。もちろん、僕もその1人だ。

ラブストーリーからサスペンスまで。ドラマから生まれたヒット曲

YouTubeもNetflixもAmazon Primeもなかった時代、日々の娯楽といえばテレビ。いまのコンプライアンスでは絶対に弾かれるような、攻めまくったドラマがゴールデンタイムに普通に放映されていた。

例えば、平凡な中年男性教師(真田裕之)と女子高校生(桜井幸子)の「禁断の愛」を描いた野島伸司・脚本による『高校教師』。レイプや近親相姦を扱ったストーリーは社会現象となり、主題歌に起用された森田童子の“ぼくたちの失敗”(1976年)は、17年の歳月を経て100万枚に近い異例のリバイバルヒットとなった。野島はその後、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』(1994年)、『未成年』(1995年)と合わせた「TBS野島三部作」で一世を風靡する。

一方、「ストーカー」という言葉がまだ普及していなかった当時、かつての恋人(賀来千香子)に異常な執着心を抱く麻利夫(佐野史郎)を主人公にしたドラマ『誰にも言えない』は、「冬彦さん現象」を引き起こした前年のドラマ『ずっとあなたが好きだった』の脚本家とプロデューサーによって製作された、異色すぎる恋愛サスペンスドラマ。

当時、こうした猟奇的なストーリーが流行った背景に、映画『羊たちの沈黙』(1991年)の大ヒットがあったのは間違いないだろう。『誰にも言えない』の主題歌となった松任谷由実の“真夏の夜の夢”は、ラテン風味のリズムにエレクトリックシタールやオーケストラヒットを散りばめたエキゾチックなサウンドが、ぶっ飛んだドラマの世界観にマッチしていた。

松任谷由実“真夏の夜の夢”(Spotifyで聴く

この年に放映された、脚本家・三谷幸喜によるテレビドラマデビュー作『振り返れば奴がいる』も、あくが強い医療サスペンスだ。主演は織田裕二と石黒賢で、主題歌はCHAGE and ASKAの“YAH YAH YAH”を起用。この曲は、1991年のドラマ『101回目のプロポーズ』のテーマ曲“SAY YES”に続き、ダブルミリオンの大ヒットとなった。

ドラマの主題歌でいえば、もうひとつ忘れてはならないのが藤井フミヤの“TRUE LOVE”。柴門ふみ原作の月9ドラマ『あすなろ白書』は、取手治(木村拓哉)が園田なるみ(石田ひかり)を後ろから抱きしめる、「壁ドン」や「顎クイ」の元祖と言っていいかもしれない「あすなろ抱き」が話題となったが、そのときに流れていたのがこの曲だ。

藤井フミヤ“TRUE LOVE”(Spotifyで聴く

Spotifyの新プレイリストシリーズ『ArtistCHRONICLE』で、藤井フミヤ本人が“TRUE LOVE”の制作秘話を明かしているが、変拍子を用いたトリッキーなイントロは「偶然の産物」だったという。チェッカーズ後期には、“ギザギザハートの子守唄”(1984年)や“涙のリクエスト”(同年)を生み出したヒットメーカー芹澤廣明×売野雅勇の手を離れ、オリジナル曲にも果敢にチャレンジしていたフミヤ。弟・尚之とともにつくりあげた“TRUE LOVE”は2人にとってひとつの到達点で、例えば猿岩石に提供した“白い雲のように”(1996年)などにも引き継がれていく。

『#4 藤井フミヤ: ArtistCHRONICLE【佐橋佳幸が語る藤井フミヤ、そして本人が語る藤井フミヤの現在とこれからについて】』を聴く
猿岩石“白い雲のように”を聴く

レアグルーヴ〜アシッドジャズ到来。変わりゆくUKインディーシーン

当時メインストリームを賑わせていたヒットソングを、こうして僕はドラマ経由で耳にすることが多かった。自ら好んで聴いていたのは海外のインディーミュージック。この頃はまだ紙媒体も活気があり、音楽雑誌『rockin'on』や『CROSSBEAT』『REMIX』、ミニコミ誌『英国音楽』などで情報を集め、新宿や渋谷の外資系CDショップに足繁く通っていた。

ただ、1993年といえばUKシーンはちょうど端境期で、クラブ「ハシエンダ」を拠点としたマッドチェスタームーヴメントは一段落し、アメリカはシアトルを震源地とするグランジブームの衝撃が、すでに失速しつつあったシューゲイザーシーンにとどめを刺そうとしていた。

この年、Slowdiveはブライアン・イーノが参加した2ndアルバム『Souvlaki』をリリースしたが、シューゲイザーの代名詞的存在だったMy Bloody Valentineは、最高峰といわれた『Loveless』(1991年)に次ぐ新作をなかなか出せずにいた。ボディペインディングしたセミヌードグラビアを出すなど、シューゲイザーのなかでもアイドル的な人気を誇ったRideやLushも、この年ほとんど鳴りを潜めていた。そうこうしているうち、エクスペリメンタルなギターサウンドに重きをおいた彼らの音楽性を、僕の耳は「リズムが弱い」と感じるようになっていた。

Slowdive『Souvlaki』を聴く

UKのクラブシーンから派生したアシッドジャズのグルーヴィーなサウンドは、そんな自分に驚くほどしっくりきた。洗練されたジャズのコード進行と、ソウルやファンク、ラテン音楽などに影響された強力なリズム。

この年、生粋のモッズであるエディ・ピラーが立ち上げた「Acid Jazz Records」からは、ジェイ・ケイ率いるJamiroquaiのデビューアルバム『Emergency on Planet Earth』や、オルガンラウンジバンドCorduroyの2ndアルバム『High Havoc』、シーンのなかでもフォーキーかつアーシーなサウンドを奏でるMother Earthの2ndアルバム『The People Tree』などがリリースされ、The James Taylor QuartetやBrand New Heavies、Incognitoらとともに日本でも注目を集めていく。

Jamiroquai『Emergency on Planet Earth』を聴く
Corduroy『High Havoc』を聴く
Mother Earthの『The People Tree』を聴く

こうしたムーヴメントと深く関わっていたのが、1991年にソロアーティストとして再スタートを切ったばかりのポール・ウェラーだ(※)。

1993年は2ndアルバム『Wild Wood』をリリースし、アシッドジャズと共振しつつもカントリーやフォーク、サイケデリックロックなどを取り入れたオーガニックなサウンドが各メディアで高い評価を得た。ちなみに、このアルバムにベースで参加したマルコ・ネルソンは、アシッドジャズを代表するバンドYoung Disciplesの主要メンバーだった。

※筆者注:ポール・ウェラーはMother Earthの『The People Tree』や、Young Disciplesの『Road To Freedom』(1991年)にも参加。ポールの相棒でThe Style Councilのメンバーだったミック・タルボットは、Gallianoの『A Joyful Noise Unto The Creator』(1992年)をプロデュースしている。

ポール・ウェラー『Wild Woods』を聴く

Love Tambourinesの衝撃。そして、“東京は夜の七時”が予見していた未来とは?

日本ではこの年、矢部直、ラファエル・セバーグ、松浦俊夫により結成されたUnited Future Organization(以下、U.F.O.)が、「Acid Jazz」と双璧をなすレーベル「Talkin' Loud」(※)からセルフタイトルの1stアルバムをリリース。

※「Acid Jazz Records」を離れたジャイルス・ピーターソンが1990年に設立したレコードレーベル。ドラムンベースのシーンとも関係が深く、Roni Size Reprazent『New Forms』(1997年)や4 Hero『Two Pages 』(1998年)などの作品もリリースした

United Future Organization『United Future Organization』を聴く

フリッパーズ・ギターを解散し、Cornelius名義で活動を再開した小山田圭吾は、The Style Councilの“My Ever Changing Moods”(1984年)にインスパイアされた1stシングル“THE SUN IS MY ENEMY 太陽は僕の敵”をリリースした(*1)。

一足先に“天気読み”でソロデビューした元相棒の小沢健二の「王道ポップ路線」を、「太陽」にたとえ揶揄したと思しき“THE SUN IS MY ENEMY 太陽は僕の敵”で、小山田が<意味なんてどこにも無いさ>と歌うと、小沢は“ローラースケート・パーク”(『犬は吠えるがキャラバンは進む』収録)で<意味なんてもう何も無いなんて 僕がとばしすぎたジョークさ>と意趣返し。

まるでThe Beatlesを解散したばかりのジョン・レノンとポール・マッカートニーのようなビーフ(*2)が繰り広げられていたのを、半ばワクワクしながら見守っていたのを思い出す。

Cornelius“THE SUN IS MY ENEMY 太陽は僕の敵”を聴く

その小山田圭吾がプロデュースしたPizzicato Fiveの『ボサ・ノヴァ2001』がリリースされたのも、いっときPizzicato Fiveに在籍していたこともある(*3)田島貴男のバンドOriginal Loveが、通算5枚目にして代表曲“接吻 kiss”をリリースしたのも1993年。

HMV渋谷店には、彼らの作品はもちろん、U.F.O.のメンバーや小山田、小沢、田島、そして小西康陽(Pizzicato Five)らが曲づくりのリファレンスにしたり、雑誌やラジオなどでレコメンドしたりした古今東西の音源も並べられ、のちに「渋谷系の聖地」と呼ばれる屈指の情報発信源となった。

Original Love“接吻 kiss”を聴く

もちろん僕もHMV渋谷店に通い詰め、給料の大半を注ぎ込んだ。そんななかで見つけたLove Tambourinesのデビューシングル“Cherish Our Love”(*4)は、ある意味では1993年に聴いたもっとも衝撃的な楽曲だったかもしれない。余計な音数を削ぎ落としたミニマルなアレンジと、少しハスキーでソウルフルなELLIEの歌声。それまでカヒミ・カリイや野宮真貴らのスウィートなウィスパーボイスに親しんできた耳に、その肉感的ともいえるボーカルはあまりにもインパクト大だったのだ。

Love Tambourines“Cherish Our Love”

さて1993年は、12月にリリースされたPizzicato Fiveの“東京は夜の七時”で幕を閉じた。弾むようなハウスビートに乗って、小気味いいメロディーを野宮真貴が軽やかに歌うポップチューン。しかし歌詞をよく読むと、そこには不穏なフレーズが散りばめられている。

<待ち合わせのレストランは もうつぶれてなかった>
<嘘みたいに輝く街 とても淋しい だから逢いたい>

冒頭で僕は、「まだ日本も世界も『よりよい暮らし』『よりよい未来』が待っていると無邪気に信じていた人が多かった」と書いた。しかし、当時の繁栄は「かりそめ」であり、出口の見えない不況がそこまで近づいていることに、おそらく小西は気づいていたのだろう。2023年のいま、“東京は夜の七時”を聴き直してみると、その先見の明、メッセージ性の強さにあらためて驚かされるのだ。

Pizzicato Five“東京は夜の七時”(Spotifyで聴く

「黒田隆憲が選ぶ1993年の15曲」

*1:小山田は自らのレーベル「Trattoria Records」を立ち上げ、Corduroyの3rdアルバム『Out of Here』をリリースした

*2:ポール・マッカートニーが“Too Many People”(1971年『Ram』収録)で、ジョン・レノンを揶揄するような歌詞を書き、ジョンはそれに“How Do You Sleep?”(同年『Imagine』収録)で反撃するなどした

*3:Pizzicato Fiveは田島貴男を2代目ボーカリストとして迎え、『Bellissima!』(1988年)『女王陛下のピチカート・ファイヴ –ON HER MAJESTY'S REQUEST–』(1989年)、リミックスアルバム『月面軟着陸 -SOFT LANDING ON THE MOON-』(1990年)をリリースした

*4:DJ瀧見憲司が設立し、カヒミ・カリィやブリッジらを輩出した「Crue-L Records」よりリリース



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