日本がヒップホップと出会った80年代。街の若者がマイクを握るまでを、ライター荏開津広が振り返る

2023年はヒップホップ誕生から50周年という記念すべき年だ。その歴史の節目に「日本におけるヒップホップ」に焦点をあてて、その歴史を振り返りたい。

黎明期に日本でどう受容されていたか、日本人の手でどうヒップホップを具体化しようと試みられていたのか。そこで生きたのはどんな人々だったのか。

もちろん一人の視点だけでそれら全てを語ることは難しいだろう。この記事では当時、実際にクラブに出入りし、レコードを聴き、1人の「ヘッズ」だった人物の目を通じた体験を振り返りたい。今回は1980年代からヒップホップを愛聴してきたDJ、ライターの荏開津広さんに話をうかがった。

1980年代日本における「初期クラブ」のあり方

ー荏開津さんが日本語でのラップを意識されたのはどの時点でしたか?

荏開津:私は映画『ワイルドスタイル』(1983年)に衝撃を受けた世代です。リアルタイム時に映画館で観たわけではなかったですが、それでヒップホップの魅力にのめり込みました。日本語の表現ということでいえば、私の場合、まずラップよりも先に日本語によるレゲエを経験したのが大きかったと思います。

映画『ワイルドスタイル』予告

荏開津:1980年代初めはニューウェーブ全盛で、ロックミュージシャンの人がダンスミュージックを手掛け始めた時期です。いくつもそれらの楽曲を聴いていくと、アフリカン・アメリカンの人たちの音楽に影響を受けていることがわかりました。それでソウルやファンクというジャンルがあること、それからジャマイカ発祥のレゲエというジャンルも知りました。

当時、私が好きになったのはボブ・マーリーのようなルーツレゲエではなく、ダンスホールレゲエです。それでクラブに行ける年齢になったときに、クラブでマイクを握り、日本語で表現されているレゲエミュージシャン、ランキン・タクシーさんの姿を目にしたんです。後に発表された音源も好きですが、当時クラブでマイクを握っていた姿はあまりにかっこよくて忘れられません。

ランキン・タクシー『ハリケーン・ラブ』を聴く

―それはいつ頃でしょうか? また当時のクラブの雰囲気を教えてください。

荏開津:1980年代の終わりくらいですね。今の若い世代には想像できないと思うんですが、当時の東京の街ではパンクファッションの人はいたけど、今でいうストリートファッションブランドがまだなくて、アメカジが全盛の時期です。

夜にダンスできる場所は、ディスコとクラブとにわかれていました。例外もあったと思うんですが、ディスコはUSチャートのヒット曲がかかる場所で、まだ都内で数軒だったクラブではチャート関係なくDJが良くも悪くも好き勝手にプレイしていた印象です。

自分はレゲエとかヒップホップを聴きたかったのと、「東京のクラブの先駆け」といえる大貫憲章さん(音楽評論家、DJ)主催のパーティーに行く友達もいて、クラブに行くようになりました。具体的にはランキンさんがライブをしていた高樹町のバブリン・ダブ、西麻布のトゥールズ・バーとP.PICASSO、当時もう須永辰緒さんがプレイしていた原宿のモンクベリーズ、それから骨董通りのTOKIOなどです。そうしたクラブで目立っていたのは、古着にコム・デ・ギャルソンやヨウジヤマモト、あとはミリタリーのミックスだったと記憶しています。そういうブランドを着ている人が目立つクラブって、当時海外でもそんなにないと思います。

そしてそのフロアの中心にいたのは、その後、裏原宿を拠点に活動される人たちや、当時のファッション業界の人たちでした。それから当時は全然わからなかったけど、ドラァグ・クイーンのような人たちも奇抜な格好で遊びに来ていた。またメディアで見たことがあるファッションデザイナーの菊池武夫さんや、原宿MILKの大川ひとみさん(日本ストリートカルチャーに大きな影響を与えたデザイナー)も来ていました。

―そうしたクラブではヒップホップもかかっていたのですか?

荏開津:ヒップホップ・ラップをかけるクラブもありました。ただ当時、「ヒップホップ・ラップだけ」ではクラブの場が成立しないんです。なぜなら、1980年代に日本に入ってくるラップのレコードはそれほど多くなかったからです。もちろん、今から振り返るとある程度の数がニューヨークではリリースされているんですけど、当時の日本に入ってくるレコードは限られていたんです。一晩いても10曲ぐらい、チャートに入った曲がかかるくらいだったという印象です。そうしたクラブの1つであったトゥールズ・バーに結構出かけるようになって、DJの経験なんか一切なかったのに店長さんに「自分はヒップホップのレコード全部持ってるから」と直接掛け合って(笑)、短い間ですがDJを一応レギュラーでやらせてもらいました。

その前後、高木完さんと藤原ヒロシさんによるTINNIE PUNXが大貫憲章さん、それにロカビリーをプレイするDJの北村さんなどとパーティーを開始します。そのイベントではロックからヒップホップまでオールジャンルがかかっていました。ただそのイベントでもラップはそんなにかかったわけではないと思います。そもそも客側にラップが好きな人も少ないんです。当時親しかったアメリカ人の友人に「なんでラップなんか聞くの? 歌詞がバカみたいじゃない?」と言われたのを覚えています。

唯一、渋谷にあったずばり「HIPHOP」という名前のクラブが1980年代半ばにオープンして、そこではヒップホップが多くかかっていました。現在、ロサンゼルスで活躍しているDJ YUTAKAさんなどがDJをやられていました。米軍基地の人とのつながりもあったのか、アフロ・アメリカンのDJの人がマイクを握って英語でラップをしたりしていました。ちなみにそこに行っていた当時は知りませんでしたが、ZEEBRAさんはもう「HIPHOP」のV.I.P.ラウンジにいたみたいで、後年「奥がそうだったよね」と言われましたが、自分はV.I.P.ラウンジがあるのも知りませんでした(笑)。

当時おっかなびっくりで六本木のQUEなどディスコ・ファンクがメインにプレイされるディスコに行ったりしても、ラップがずっとプレイされていたという印象はなかったです。先ほど言ったように数は限られていますから、一晩で同じ曲がかかったりもします。しかしそれはDJやクラブの責任ではなく、まだそういう時代だったからです。

ラッパー前史。日本人がヒップホップに挑む足跡

―以前、荏開津さんは『bounce』228号の「ヒップホップを生きる世代の登場」という記事で、「日本のヒップホップのレコードでの試みは86年に近田春夫がリリースした“マスコミュニケーション・ブレイクダウン”から始まった」と書かれています。それ以前にも、日本語でヒップホップを目指そうとした作品はあるのでしょうか。

荏開津:当時「日本語でのヒップホップ」を目指そう、自分の作品に取り入れようという兆しはいくつかありました。例えば大阪を拠点に活躍されていた天宮志龍さんは、ラップをしながらDJをしていたと友人のDr.Tommyから聞いたことがあります。

また中西俊夫さんが1983年に出したカセットテープで、藤原ヒロシさんがスクラッチをやっている箇所があります。ラップではありませんが、日本人がヒップホップカルチャーを取り入れようとした足跡ではあると思います。その後、中西さんがやられていたユニットMELONも、1986年にリリースされたアルバム『Deep Cut』でヒップホップを取り入れています。

MELON“HARD CORE HAWAIIAN(DEF JAM REMIX)”を聴く

荏開津:先駆けてあったのは、桑原茂一さん、伊部雅刀さん、小林克也さんらによるスネークマン・ショーの"咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3"(1981年)です。作曲は細野晴臣さん。これが最初期に音楽的にラップらしいことを試みた事例だと思います。

1950年代・60年代に活躍したスパイク・ジョーンズというミュージシャンがいます。『マルコヴィッチの穴』『her / 世界でひとつの彼女』などで知られる映画監督と同じ名前ですが、別人です。このスパイク・ジョーンズは日本語では「冗談音楽」と呼ばれるジャンルの音楽をやっていました。ラップ以前の「アメリカンポップスにおける語りもの」の伝統を、細野さんはディスコやファンクのようなビートと結びつけたのです。音楽としてかっこいいなと思いました。

ちなみにスネークマン・ショーの桑原茂一さんはその後ピテカントロプス・エレクトスというクラブ・バーを原宿にオープンします。この場所のすごさについては故・宮沢章夫さんが著書で触れています。

Spike Jones『SPIKE JONES in HI-FI』を聴く

荏開津:もちろん吉幾三さんの“おら東京さ行くだ”(1984年)もあります。ご本人が「ラップに影響を受けた」と仰っているので、そうなんでしょう。ただヒップホップに感じた都市音楽としての魅力が少ない。そしてコメディー的な企画物で、それ自体は悪くないのですが、このあとラップアルバムがリリースされる可能性は低いだろうと感じていました。

吉幾三“おら東京さ行くだ”を聴く

荏開津:またYla-Magoというユニットのリリースした“Tyo Rock”、“News Paper Pushman”(1984年)という曲があります。ドラムマシーンだけでのトラックであるのが注目すべきポイントです。当時の私は「ヒップホップ」といえばともかく延々と続くブレイクビーツの上でラップする曲を聴きたいわけです。でも日本語の曲に、そうしたものはなかなかありませんでした。

近田さんの“マスコミュニケーション・ブレイクダウン”は今から考えると日本語のラップとしての試みでありながら、近田さんが週刊誌やテレビで面白半分に取り上げられたことに対するメディア批判をポップソングとして成立させたのがポイントになっています。 USのラップに最初からあった「社会・メディア批判」の要素を彼個人の体験を通して1980年代の日本のポップスに持ち込んだのです。

―さきほど挙げた文章で、「レコードでの」という点が気になっていました。レコーディングされたもの以外にも、ヒップホップに対する試みはなされていたのでしょうか。

荏開津:1980年代半ばにはクラブに行くと、先ほどお伝えしたようにランキン・タクシーさんや、のちにメジャーフォースからデビューするCHAPPIEさんのような人がいました。彼らはパトワや日本語を混じえてマイクを握り、レゲエをプレイしていたんです。自分には論理的な展開として当然に思えました。

またストリートに目を向ければ原宿でCRAZY-Aさんやその周囲の人たちがブレイキング(ブレイクダンスを行うこと)をやっている。そこにはDJ KRUSHさんもいたし、MUROさんもいた。ヒップホップの四大要素という観点から、ブレイキングも日本のヒップホップを語る上では当然ながら重要な要素です。

CRAZY-Aが客演に入ったRHYMESTER"Bの定義"(1999年)を聴く

荏開津:また1984年にMYSTIC MOVERSを結成した日本のブレイキング創始者の1人であるCAKE-Kさんは80年代半ば過ぎのデモなどを聴くと、他にはないアプローチがなされていると思います。CAKE-Kさんは色々なディスコでパフォーマンスをしていたと言いますが、自分とはハングアウトする場所と仲間が少し違っていたので当時直接観たわけではありません。

CAKE-Kが所属していたB-FRESH『BROWN EYED SOUL』(1991年)を聴く

荏開津:僕は東京の一部についてしか知りませんが、それでも商品としてパッケージされる前後から、そのようにだんだん日本のヒップホップ文化が始まりつつあったわけです。そんな中で、少し時代は前後しますがいとうせいこうさんが『業界くん物語』(1985年)、それからTINNIE PUNXとともに『建設的』(1986年)をリリースする。いとうせいこうさんが俳優、スタンダップコメディアンのような立場ですでに活躍されていて、「話芸があった」という要因も大きかったと思います。

いとうさんは当時、講談社から出ていた雑誌『ホットドッグ・プレス』の編集者です。編集者でありながら、メディアにも露出しており、その存在は知っていました。そのため個人的には「ラッパー」というよりは「新しい時代に相応しい才能のある人がやっているラップ」という受け止め方でした。もちろんECDや、スチャダラパー、RHYMESTERなど、そこに影響を受けてラップを始める人たちがのちに登場します。そのため日本のヒップホップを語る上でとても重要な作品です。ご存知のように『建設的』も全曲ラップのレコードではありませんが、“東京ブロンクス”のコンセプトは2000年代のUSのアンダーグラウンドヒップホップにも通じています。また当時ライブで感じた「声」のエネルギーについては今でも考えています。

いとうせいこう&TINNIE PUNX『建設的』を聴く

荏開津:次に1986年に近田春夫さんがBPMというヒップホップ専門のレーベルをつくり、“マスコミュニケーション・ブレイクダウン”をリリースします。ECDさんが当時を振り返って「日本にヒップホップのレーベルができるのか」と衝撃を受けたと書いています。

一方で僕は、いとうさんや近田さんのなさっていたことに驚きながらも、『ワイルドスタイル』を通じて「誰だかわからないような若者たちがストリートやクラブで手づくりでやっている感じ」に憧れたので、ヒップホップがもっともっとマジョリティーに広まっていって欲しいとも思っていました。

―いとうさんも近田さんも、もともと知られた存在だったからですね。

荏開津:そうした中で1980年代終わりにリリースされたTINNIE PUNXの“DO the PUNK ROCK”は曲として素晴らしかったです。ミニマルなビートの上に、政治や社会にも触れながら当時の東京のリアリティーが表現されていました。完全ではありませんが高木完さんはAA BBと脚韻を踏んでいたと思いますし。だから僕は彼らのアルバムがリリースされるのを待ち望んでいたんです。

“DO the PUNK ROCK”のリリックは日本語と英語のちゃんぽん(不自然なところはある)です。学校になじめなかったものの、英語を話せてヨーロッパやアジアの友人といつもいた自分にはリアリティーがありました。そうした雰囲気の「リアル」は当時の東京の一部に確実にあったし、今の日本のラッパーのリリックのスタイルに通じているとも思えます。個人的には日本語でラップすることにこだわっていなかったと思います。でも英語でUSに匹敵する作品をつくるのも難しいとは思っていました。

その後、高木完さん、藤原ヒロシさんは中西俊夫さんたちMELONのメンバーと共同でメジャー・フォースというダンスミュージックのレーベルをつくったので、期待も膨らみました。ただTINNIE PUNXがラップアルバムをリリースすることはなかったので残念でした。

業界の人々だけでなく無名の若者も。ヒップホップがコミュニティ化

―編集者やロックミュージシャンといった、すでに名前を知られた人々がラップをやるというところから、無名の人物が「ラッパー」になる過程を感じ始めたのはどこくらいからでしたか?

荏開津:1980年代後半から1990年代初めの東京のクラブでは、新しいラッパーの人たちのパフォーマンスが少しずつ観られるようになってきます。KRUSH POSSE、HOME BOYZ、MC BELLさんやCAKE-KさんのいたB-FRESH、知る限り最初のフィメールラップグループのファンキー・エイリアン、佐々木潤さんのファンキー・ウォーターゲートなどが1980年代終わりに活動を開始し、スチャダラパーがデビューしたのが1990年です。なので、その頃でしょうか。本当に当時は、1年に1曲、日本語によるヒップホップのレコードが出るか出ないかくらいのペースだったんですよ。

スチャダラパー『スチャダラ大作戦』(1990年)を聴く

―そうした無名の人々が「ヒップホップ」を通じてシーンを形づくっていくのは、どういった場所だったのでしょうか?

荏開津:レコードショップや、ニューヨークのDJのラジオをレコーディングしたカセットテープが置かれた、今でいうCBDショップみたいな場所などもありました。あと、やはりクラブが大きいと思います。中西俊夫さん、高木完さん、藤原ヒロシさん、それからECDさんがオーガナイズする側に回り、須永辰緒さんがDJをするパーティーなどが開かれていました。

当時、そういうクラブに出かけると、ヒップホップやレゲエが好きな人たちがその中にいる。だからそこでお互いを発見していく。そこには、DJ KRUSHさんたちのグループであるKRUSH POSSE、それからBOY-KENさんや、のちに『HIPHOP最高会議』というイベントを始める千葉タカシさん、A.K.I.PRODUCTIONSさんもいました。

DJ KRUSH『Meiso』(1996年)を聴く

荏開津:また1986年にはMASSIVE ATTACKの前身にあたるThe Wild BunchというDJクルー、1989年はJUNGLE BROTHERSの来日がありました。それも大きかったように思います。The Wild Bunchは東京のクラブをいくつか回りました。『ワイルドスタイル』のキャストの来日から数年後に、2枚使いのDJを見られるのはすごく刺激的で、自分は数回遊びに行きました。

JUNGLE BROTHERSは湾岸にあったインクスティック芝浦ファクトリーというクラブでライブをしました。インクスティックは有名になる前のシャーデーなどを招聘していたバーの系列で、いとうせいこうさんたちもライブをしていたし、クラブに普段行っている人たちが、最新の音楽としてヒップホップを聴きに集まっていました。

The Wild Bunch『Tearin Down The Avenue』を聴く

JUNGLE BROTHERS『Straight Out The Jungle』(1988年)を聴く

荏開津:1990年くらいからは、下北沢ではスチャダラパー仲間たちのパーティーもあり、そこに小沢健二さんたちも来るようになりました。またその下北沢Zooで『スラムダンクディスコ』というオープンマイクのイベントを自分が始めて、そこにクラブで知り合った人々を「一緒にやらない?」と呼んだりしていました。MUROさんとKRUSH POSSE のGOさんというDJとも一緒にプレイをしました。

少し経ってからは、RHYMESTERやYOU THE ROCK★さんも来てくれたし、Twigyさんと刃頭さんによるユニットBEATKICKSもクラブの人がすごいと褒めていたので、名古屋から呼んだりしました。1990年にはKRUSH POSSEを含む、まだストリートクラブで活動していた人たちによる『 YELLOW RAP CULTURE IN YOUR HOUSE』というラップのコンピレーションが自主でリリースされて、自分は「とうとう色々始まった」とどきどきしました。

刃頭がのちにTOKONA-Xと組んだユニットIllmariachi『Tha Masta Blusta』(1997年)を聴く

荏開津:そうしたヒップホップが好きな人々が集うイベントが定期的に開かれることでコミュニティができあがっていくのを実感しました。そこで後に「さんぴん世代」と呼ばれる人たちがマイクを握るようになっていきます。

当時は、六本木や西麻布のクラブも盛り上がっていましたし、自分は表参道のクラブでレジデント(レギュラーのDJを指す)をしていました。ただクラブのポリシーもあるからオープンマイクはできなかったんです。それに六本木、西麻布はもう少し大人の音楽業界やファッション業界の人たちが多かった。だけど一方で自分はようやく増えてきた普通のヒップホップ好きな若者を集めてイベントを開きたいと思っていたんです。

ストリートカルチャーの素晴らしさ=階級や家庭環境を超えた人々が交差できる領域

―日本のヒップホップに関して、黎明期はいとうせいこうさんや、少し後ですがZEEBRAさんの印象が強いためか、経済的に豊かな人物が主導したということが語られがちです。その点はいかがでしょうか。

荏開津:「文化資本が高い人たちが日本のヒップホップを始めた」「実家の太い子どもたちが始めた」という言い方がありますが、僕は誤りだと思います。たしかに初期にレコードを出した人の一部は、すでに業界とつながりがある人、裕福な家庭の方もいたと思います。しかしその一部を取り上げて全体の印象にまとめてしまうのは違うのではないでしょうか。

じつは、自分はさまざまなアーティストの家庭的な背景も調べたり、うかがったりしています。もちろんプライバシーに関することなのでここで公にはしません。ただその上で、1990年代半ばまでのヒップホップ黎明期に活躍した人が、経済的に豊かな人ばかりではなかったということは意見しておきたいです。公言なさっている方では、ECDさんのご実家も決して裕福ではなかったと思います。

ECD『ECD』(1992年)を聴く

荏開津:ただ「日本のヒップホップを始めたのは実家が太い人だ」という意見に対して、真っ向から批判する気持ちになれないのは、現在と当時の社会状況があまりにも異なるからです。当時、日本はバブル期です。現在、都内の中心地のごくごく一部に感じられる浮ついた雰囲気が、国全体として漂っていた時代でした。

そもそも「文化資本が高い」のは「実家が太い」とは意味が違います。「文化資本」という言葉はピエール・ブルデュー(フランスの哲学者)の『ディスタンクシオン』(1979年)から出てきた概念だと思います。ここではフランスの階級制度を前提に論が展開されており、実際には美の概念の普遍性についてのリサーチと議論です。しかし元来ヒップホップの何が素晴らしいかと言えば、自分の出自や属している階級とは関係ないところで、みんなが自由に交流できるところだと思うのです。ストリートに出た子どもや若者たちは業界とのつながりや、実家の豊かさと関係ないところで、ヒップホップというカルチャーに魅せられています。

『CHECK YOUR MIC』(1992年)を聴く

―ヒップホップを始めた特定の人物というより、社会全体が豊かだったということですね。

荏開津:1980年代初め、ヒップホップ込みで「ニューヨークの新しい文化」が日本で注目されていた時期だったことも大きいと思います。日本でもアメリカでも現代美術の「ニューペインティング」や「パフォーマンスアート」「ビデオアート」に注目が集まり、ローリー・アンダーソンの曲がUSポップチャートの2位まで駆け上っていました。キース・ヘリングがかつて神宮前にあったワタリウム美術館の前身・ギャラリーワタリを訪れたり原宿の歩行者天国の路上に絵を描いたり、ジャン=ミシェル・バスキアも来日したりさまざまなニューヨークの新しい文化が日本で紹介されていた。ビデオを使ったアーティスト、ナム・ジュン・パイクと坂本龍一さんがコラボレーションをしていた時代で、それらの1つとしてヒップホップも注目されたのです。

今の若い方には想像できないかもしれませんが、当時は浅田彰さんの『構造と力』(1983年)が何十万部のベストセラーになる時代です。特別に「インテリ」なんて呼ばれる人々でなくても読んでいました。今、ジェンダーや気候変動など、特別に詳しい人でなくても共通して多くの人が関心を持つトピックだと思いますが、当時の「ニューヨークの文化」はそれに近い。もちろんSNSはないので、全く同じではありませんが、メディアによってその情報が多く発信されていました。その発信をもとに、ヒップホップは海外からの最新流行で革新的な出来事と捉えられた面がありました。

『MAJOR FORCE COMPACT Vol.1』(1989年)を聴く

―社会的な側面だけでなく、当時の文化的なトレンドも影響をしていたということですね。

荏開津:私は「最初から日本のヒップホップはストリート発で、(ブルデューのいうところの)文化資本の高くない人たちがつくったのだ」と主張したいのでありません。それよりも、事実として多くの子どもたち、若者たちがヒップホップに魅せられ、それぞれの個人的な背景を気にしない交流の中から日本のヒップホップは生まれてきたのではないかと指摘したいんです。そこがストリートカルチャーの素晴らしさの1つではないかということです。そして今でも、ストリートカルチャーの現場では、階級・人種・ジェンダーを超えた、さまざまな子どもたち、若者たちが交流しているのだと思います。

プレイリスト『+81 Connect: J-Hip Hopの「今」と「その先」』を聴く

※掲載時、本文の一部記述に誤りがございました。訂正してお詫びいたします。

プロフィール
荏開津広 (えがいつ ひろし)

執筆 / DJ / 京都精華大学、東京藝術大学非常勤講師、東京生まれ。東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、MIX、YELLOWなどでDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域で国内外にて活動。2010年以後はキュレーション・ワークも手がける。



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