サザンオールスターズを「学生バンド」時代から知る識者が語る。桑田佳祐との衝撃的な出会いを振り返る

今年デビュー45周年を迎えたサザンオールスターズ。7月にリリースされた、エキゾティックな昭和歌謡“盆ギリ恋歌”からスタートした3か月連続の新曲配信リリースに加え、10年ぶりに故郷である神奈川県・茅ヶ崎でのライブイベント『茅ヶ崎ライブ2023』の開催も控えている。

そんな節目を祝し、桑田佳祐をアマチュア時代から知る音楽評論家、萩原健太と高橋健太郎の対談を実施。当時のエピソードはもちろん、その類稀なる音楽的才能について語り尽くしてもらった。萩原と高橋が、サザンオールスターズについて初めて語り合う貴重な対談となった。

メイン画像:©JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント

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「桑田の才能を目の当たりにして、『プロのミュージシャンになるのは、こういうやつなんだ』と思いミュージシャンになるのは諦めた」(萩原)

─まずは、お二人がサザンオールスターズに出会ったきっかけから教えてもらえますか?

萩原:神奈川県の茅ヶ崎市でミュージックライブラリー&カフェ「Brandin」を経営している宮治淳一ってオールディーズ好きがいるんですよ。山下達郎さんの『サンデーソングブック』にもときどき出演している彼は僕と同い年なのですが、1年遅れで早稲田に入ってきて、そこで知り合ったんですね。あの頃はまだ「オールディーズマニア」なんてまずいなかったんですけど。

高橋:いないよね。『アメリカン・グラフィティ』が公開されたのがいつだっけ。

萩原:日本では1974年。僕が宮治と知り合ったのが1975年だから、多少はオールディーズブームも高まりつつあったのだけど、周りにThe Beach Boysとか聴いているやつはほとんどいなかった。宮治と知り合い、初めて『Surf's Up』(1971年)という言葉を口にしたくらいだから。

高橋:あははは。

萩原:その宮治は「湘南ロックンロールセンター」という、「ウラワ・ロックンロール・センター」(※)から名前を拝借した、アマチュアバンドを集めるライブイベントの主催者だったんです。

そこに当時、宮治が組んでいたブルースバンドが出るので観に行ったとき、宮治の中学時代の友達がやっている「サザンオールスターズ」という青学のバンドが出ていた。そこで初めて僕は桑田佳祐という男を見たんです。

※筆者注:1970年代から1980年代にかけて、埼玉県浦和市で活動を行なっていた音楽プロデュース集団

萩原:とにかく、「こんなすげえやつがいるのか」と。当時は僕もバンドをやっていたし、宮治に紹介されて桑田とバンドを組んでいたこともあって、「ミュージシャンになれたらいいな」という漠然とした夢みたいなものを持っていました。

でも桑田の才能を目の当たりにして、「プロのミュージシャンになるのは、こういうやつなんだ」「俺は桑田の音楽を聴いていればいい」と思い、ミュージシャンになる夢は諦めた。そういう存在でもあるんですよね。

「最初期のライブのときからすでにサザンとしてのスタイルが完成していた」(高橋)

高橋:僕も大学生の頃はバンドを組んでいました。3つ年上でいまは音楽ライターをやっている平山雄一さんが、ギターの名手で、いい曲を書いていたんですよ。彼や、当時、久保田麻琴と夕焼け楽団にも参加していたドラマー、シンガーソングライター南正人のサポートをしていたベーシストらと一緒に、「小劇場 渋谷ジァン・ジァン」に出たりしていたんです。

で、どういう経緯だったか忘れちゃったんだけど、新宿Loftに出演したとき、たまたまほかのバンドを観にきていた池村雅彦さん(※)から、「君たち面白いね。New Riders of the Purple Sageとか好きなの?」と声をかけられて(笑)。

※筆者注:サザンオールスターズなどを手がけるレコーディングエンジニア。バンド活動をしていた大学在学中にアマチュアミュージシャンコンテスト『POPCON』や『EAST WEST』に関わりサザンオールスターズ、佐野元春らと知りあう。のちにビクタースタジオで、さまざまなジャンルのアーティストの作品を手がける

高橋:それで「ヤマハでデモテープをつくらない? ただでスタジオ使っていいから」と言ってもらい、それで渋谷のヤマハに通いはじめるのだけど、あるときに池村さんが「じつはもう1組、デモをつくっているバンドがいるんだ」と言って聴かせてくれたのがサザンオールスターズだったんですよね。

萩原:へえ!

高橋:聴いた瞬間に、とにかくびっくりして、「これは絶対にライブを観なきゃ」と。その2週間後くらいに「ヤマハ渋谷店 ヤングステージ」で観たのが最初。おそらく、サザンにとって初めてのヤングステージだったんじゃないかな。そしたら1曲目が“女呼んでブギ”で、<女呼んで もんで 抱いて いい気持ち>って歌い出すわけですよ(笑)。そのときからすでにサザンとしてのスタイルが完成していました。

サザンオールスターズ“女呼んでブギ”(1978年8月リリースの『熱い胸さわぎ』収録)を聴く

高橋:たとえばLittle Featやレオン・ラッセルなど、当時の桑田くんがやりたかった音楽は、僕も同じようにやりたかった音楽だったこともあって、毎月のようにヤングステージに通うようになりました。ちなみに斎藤誠(※)によれば、知り合いでもないのに、サザンを目当てに足を運んだ最初のオーディエンスは僕らしいです(笑)。

萩原:俺もヤングステージにはちょくちょく応援に行っていたので、きっと健太郎くんともどこかですれ違っていただろうね(笑)。

で、あの頃さ、結局レコードにならなかった楽曲もいろいろあったわけじゃない? Little Featの“All That You Dream”みたいな曲とか本当にすごかったよね。「とてつもないやつだな」と思ってた。

高橋:当時の未発表曲、ほとんど全部覚えてる(笑)。

※筆者注:1983年にアルバム『LA-LA-LU』でデビューしたシンガーソングライター。桑田や原由子とは青山学院大学時代に知りあい、サザンオールスターズのサポートギタリストとしても活躍している

Little Feat“All That You Dream”(1975年)を聴く

高橋:僕も健太くんも、桑田くんも同世代で、インプットの度合いは大差ないと思うんですよ。でも、たとえば桑田くんが最初に書いた曲のひとつに、“茅ヶ崎に背を向けて”がある。あれはピーター・フランプトンの“Show Me The Way”のコードをギターで弾いていたら「お、1曲つくれる」と思ってできたらしいのだけど、それであのクオリティーとはどういうことだろう? と思うじゃないですか。

海外の音楽を一生懸命たくさん聴いて何かをつくるのとは、まったく別のところに「作曲家としてのセンス」が最初からあった。同じような音楽を聴いて同じような組み合わせ方をして、同じようなアレンジで演奏しても、まったく違う次元のものが出てくるという。

サザンオールスターズ“茅ヶ崎に背を向けて”を聴く
ピーター・フランプトン“Show Me The Way”(1975年)を聴く

桑田佳祐のアナーキーな言語感覚“勝手にシンドバッド”の衝撃、そのマジックを解き明かす

萩原:あとは、彼の持つ言語感覚ですね。おそらく、リアルタイムで経験しないとなかなかわかりづらいところかもしれないのだけど、「日本語をメロディーのなかでどうグルーヴさせるか?」というテーマは、1970年代に入ってからもまだまだ試行錯誤が続いていたわけじゃないですか。

はっぴいえんどあたりがパイオニアで、キャロルなんかも別の角度から「ロックと日本語」の挑戦をしていたけど、桑田みたいに日本語の響きを有機的に解体した人は、それまで1人もいなかった。本人に聞いたところ、そんなことなにも考えずにやっていたみたいだけど。

桑田自身は、はっぴいえんどからはあまり影響を受けていなくて、それよりはもっと前の、たとえば坂本九や弘田三枝子あたりがやっていたような、日本語をちょっと英語っぽく発音しながら「洋楽っぽい世界観」をつくっていくやり方に、むしろインスパイアされていると思うんです。要するに、ひとつ世代を飛び越して新しいものにつくり替えているというか。

高橋:日本語の詰め込み方や、譜割の面白さという部分では大滝詠一さんに近いのかな。日本語のロックをやっていたほかの人たち、たとえば、細野晴臣さんも鈴木慶一さんも、どちらかというとフォークのニュアンスというか、「たおやかな日本語」のよさを追求していた。桑田のような下世話な詰め込み方をする人は、たしかにほかにいなかったかもね。そこは大滝さんとも手法は少し違うけど。

萩原:大滝さんは、日本語の詞を一度ローマ字にしてから歌っていたという話を聞いたことがある。同じように、日本語を「音」としてどう響かせたらロックビートの上で躍動するのか、意識的にせよ無意識的にせよ桑田は考えていたんじゃないかな。それも、長いキャリアのなかである時期からまた全然違うものになっていくのだけど。

高橋:あと、1曲のなかで言葉を詰め込むセクションと、すごく麗しいメロディーを聴かせるセクションが同居していて、唐突に現れるのが特徴だよね。あれはすごく新しかったというか、日本語の音楽で当時はほとんどなかった。

萩原:たとえば“勝手にシンドバッド”って、最初にライブで聴いていたときはスティーヴィー・ワンダーの“Another Star”みたいな、テンポもいまよりずっと遅い曲だったんだよね。それをテンポアップして演奏したことで、言葉がよりぎゅっと詰め込まれた、よりユニークな曲になっていくわけです。

サザンオールスターズ“勝手にシンドバッド”(シングルリリースは1978年6月)を聴く
スティーヴィー・ワンダー“Another Star”(1976年)を聴く

萩原:あの、言葉をブワーッとたたみかけて何を歌っているのかわからない感じを、近田春夫さんは「洋楽を聴いているみたいに、聞き取れる言葉をつなぎ合わせて自分なりの風景を思い浮かべる楽しさがある」と評したんだよね。そのとおりだなと思う。

“勝手にシンドバッド”は途中、<江ノ島が見えてきた 俺の家も近い>という歌詞が出てくるけど、そこに原由子たちのコーラスが重なると意味もなく急に泣けてくる(笑)。前後のつながりとかあるように思えないし、ひょっとしたら偶然の産物かもしれないけど、そういういろんなマジックがあの曲には惜しげもなく詰め込まれていたんだと思う。

高橋:でも“勝手にシンドバッド”はさ、それまでのサザンのベーシックなレパートリーからは一歩踏み出た曲だよね。正直なところ「え、これでデビューするんだ」と当時は思った。

萩原:そうだね。その前からずっと追っかけていた側からすると「これなの?」って。桑田はほかにも素晴らしいバラードもファンキーな曲も、グルーヴィーな曲もあるのに。

高橋:そうそう。“別れ話は最後に”とかさ、とにかく名曲をバシバシつくっていたわけだから意外だと思ったし、「メジャーからデビューするというのは、こういうことなのか……」なんて複雑な気持ちにもなった(笑)。しかも、2曲目が“気分しだいで責めないで”じゃない? 

萩原:“勝手にシンドバッド”と同じ路線で来たよね。

高橋:だから、3枚目のシングル“いとしのエリー”が出たときには「あぁ、やっぱりこいつはすごい作曲能力を持っているんだ」とそこで思い知らされたんです。

サザンオールスターズ“気分しだいで責めないで”(シングルリリースは1978年11月、1979年4月リリースの『10ナンバーズ・からっと』収録)を聴く
サザンオールスターズ“別れ話は最後に”を聴く
サザンオールスターズ“いとしのエリー”(シングルリリースは1979年3月)を聴く

桑田佳祐と同じ1956年生まれの2人は、サザンの歩みをどのように見ているか?

─その後、サザンは国民的なバンドへと成長していくわけですが、デビュー前から彼らを知っているお二人は、それをどんなふうに見ていましたか?

萩原:桑田は日本語をグルーヴさせるために、かなりアナーキーなことをやっていたんだけど、ある時期からものすごく歌詞の意味にこだわるようになっていくんです。近年特にそれが深くなっていて、年齢を積み重ねた人間の表現になっているし、それが聴いている人たちの人生に重なるんじゃないかな。

“はっぴいえんど”とか、ファンに対する思い、原由子はじめメンバーに対する感謝の気持ちを、ああいう普遍的な歌詞にしているのはすごいと思う。『キラーストリート』(2005年)に収録された、“ひき潮 〜Ebb Tide〜”という曲がまたいいんですよ。桑田は昔からエルヴィン・ビショップみたいなハチロク(※)の曲をおりに触れてつくるけど、歳を重ねたバージョンにちゃんとなっているんだよね。

高橋:あのハチロクは湘南のリズムなの?

萩原:いや、エルヴィン・ビショップでしょ。

※8分の6拍子のリズムのこと

サザンオールスターズ“はっぴいえんど”(2015年3月リリースの『葡萄』収録)を聴く
サザンオールスターズ“ひき潮 〜Ebb Tide〜”を聴く

高橋:冒頭で健太くんが、周りに音楽の話ができる友人が誰もいなかったと言っていたじゃないですか。あの頃って基本的に人数が少ないんですよ。だから、たとえば「早稲田には吾妻光良(※)がいる」とか、同世代で目立つやつのことはだいたいみんな知っていて。

僕は実は早稲田高校に合格していたから、もし行っていたら健太くんにも出会っていただろうし、そうしたら音楽の道に行かなかったかもしれない(笑)。だって、「こいつには敵わない」ってやっぱ思うじゃん。

萩原:あははは。でも、たしかに当時は同じ音楽の趣味を共有できる友人が周りにほとんどいなかったので、逆にそういう人たちが目立ったし、集まっちゃったんだろうな。

※筆者注:1956年生まれのミュージシャン。早稲田大学理工学部の音楽サークル「ロッククライミング」に所属。当時交流のあったモダンジャズ研究会のメンバーとともに「吾妻光良 & The Swinging Boppers」を結成し、1983年にアルバム『スウィング・バック・ウィズ・ザ・スウィンギン・バッパーズ』でデビュー

高橋:しかも、僕らってすごく微妙というか「狹間の世代」なんですよ。僕は、若い頃にデビュー前から見ていたバンドが3つあって。ひとつは客4人のなかの1人としてライブを観ているシュガー・ベイブ、そのあとサザンオールスターズに出会い、3つめがPizzicato Fiveなんです。

桑田くんが同世代で、達郎さんは3つ上、小西くんは3つ下。世代的にはそのくらいしか離れていないのに、1970年代の終わりに訪れたパンクムーブメントによって、この3世代は「分断」されてしまった。僕らより上、つまりはっぴいえんどからシュガー・ベイブまでの世代と、小西くんやサエキけんぞうくんたちがいるニューウェイヴ世代の狹間で、どっちにも属せないみたいな。

パンクもあり、AORもあり、ディスコとかフュージョンとか、いろいろスタイルが出てきた時代で、どれも好きだったんだけれど、それだけにどっちつかずの「狹間」世代になってしまった。僕なんてパンクを聴いて髪を切りつつ、Little Featとか聴いているやつだったからさ(笑)。

萩原:なるほどね(笑)。

高橋:そんななか、サザンだけが独走態勢というか、当時の大学生バンドの音楽性のまま突き進んでいった印象がある。ほかの同世代たちはみんな、紆余曲折せざるを得なかったというか、マニアックな道を極めるなり、大化けしてポップの王道を行くなりするほかなかったのだけど。

さまざまな音楽スタイルに挑戦しながら、サザンと桑田佳祐が決定的だった理由

高橋:今回この対談の話をいただいて、サザンの過去をあらためて聴き返してみたんだけど、本当にいろんなスタイルに挑戦しているんだよね、エレクトロをやったりジャズをやったりさ。

萩原:Radioheadみたいな曲もあるし。

高橋:そうそう。2023年から振り返ると、どの年代に何をやっていたのかも判然としなくなるんだ。結局いまは全部「あり」だから。

おそらくリアルタイムでは、その時々に流行った音楽を聴いて触発されながら活動していたと思うし、年表にまとめて振り返ってみれば、「ああ、きっとこの頃はStingを聴いていたんだろうな」みたいなことはわかる。けれども、いまとなってはサザンオールスターズとしてのバリエーションのひとつとしてしか聴こえない。

しかも、そうやって変化を繰り返しているにもかかわらず、ボーカリストとしての桑田佳祐は何にも変わってないんだよね。「レオン・ラッセルみたいに歌いたいんです」と言っていたのを聞いたことがあるけど、そのスタンスのまんま、ここまで来ちゃうのがすごいなと(笑)。

萩原:その一方で、たとえば前川清や内藤やす子、ザ・ピーナッツといった、「ザ・歌謡曲」を自分の音楽にどんどん取り込んでいくわけじゃない? いまは当たり前かもしれないけど、それを桑田や大滝詠一さんは1970年代にやっていたのがすごいことだと思うんです。

高橋:「歌謡曲との融合」ということだね。言われてみれば、そういうことをやっていた連中ってジャズ界隈には昔からいたけど、ロックやポップスのシーンにはあまりいなかったかもしれない。

萩原:僕も健太郎くんも洋楽ファンなので、日本の音楽を聴いていて「日本人でよかったな」と思う機会はすごく少ない。でもサザンを聴いているとそう思えるんです(笑)。きっとアメリカ人もサザンを楽しむことはできるけど、俺たち日本人ほどではないだろうなって。サザンの音楽は、日本語の「音」の響きを意味と一緒に楽しむという要素が大きいからね。

「ヒットした曲が一番いい」「マニアックな曲ですら、ヒットのポテンシャルを持っている」

高橋:言葉の問題だけじゃなくて、サウンド面だけにフォーカスしてもドメスティックというか。サザンの音楽には、いい意味でずっと垢抜けない何かがあって(笑)。

洋楽ベースだということはわかっていて、同じ世代で同じような音楽が好きな人たちなんだけど、サザンがやると、もろに洋楽っぽいことでも洋楽の響きがしないのはなぜなのか、ちょっとわからない。

萩原:きっと、彼らが「学生バンド」のまま続けていったというところはあるのかもしれない。その形を崩さないから、その範囲内でのことしかやらないわけじゃない?

もちろんレコーディングではいろんな楽器を取り入れているし、外部ミュージシャンを招き入れてSteely Danみたいなことをやろうとしたこともあるのだけど、最終的には「バンド」という形に落とし込んでいるというか、5人でやることにこだわっているところも大きいんじゃないかな。

高橋:あとは、桑田佳祐という得体の知れない存在が大きすぎるのだろうね(笑)。音楽的な趣味とかで共感して震えるみたいなところには、もはやいないというか。だって彼らの楽曲で好きなのは、だいたいヒットした曲なんだよ。ヒットした曲はやっぱり「すごいなあ」と思う。

普段の僕なら「あのアルバムの、この音がいいんだよ」みたいなマニアックなことを言いがちなんだけど(笑)。でもサザンに関しては、そういうのがないんだよね。「ヒットした曲が一番いい」ってなっちゃう。

萩原:サザンの場合は「マニアック」の規模も違うんだけどね。たとえば僕が一番好きな曲は、“C調言葉に御用心”のB面に入っていた“I AM A PANTY(Yes, I am)”なのだけど、Little Featの“Dixie Chicken”そのまんまで、途中で桑田が松田優作のモノマネをしたりする(笑)。

それが僕のなかにあるサザンのイメージなのだけど、彼らのヒット曲しか知らない人がこの曲を聴いても、かなりの確率で好印象なんですよ。つまりマニアックな曲ですら、ヒットのポテンシャルを持っているという。

サザンオールスターズ“I AM A PANTY(Yes, I am)”(シングルリリースは1979年10月、1989年7月リリースのベストアルバム『すいか SOUTHERN ALL STARS SPECIAL 61SONGS』収録)を聴く
Little Feat“Dixie Chicken”を聴く

サザンオールスターズはすべての人の思惑を超えていった

─ちなみに、お二人の好きなサザンの曲とアルバムを挙げるとしたら?

高橋:僕はアルバムでいうと、1stアルバム『熱い胸さわぎ』(1978年)と2ndアルバム『10ナンバーズ・からっと』(1979年)は、わりと近くにいて見ていたからちょっと別格なんですよね。

『熱い胸さわぎ』を聴く(Spotifyを開く) / 『10ナンバーズ・からっと』を聴く(Spotifyを開く

高橋:でも、5枚目の『NUDE MAN』(1982年)や8枚目の『KAMAKURA』(1985年)あたりはリアルタイムで聴いて、「いいな」と思いました。もちろん『葡萄』(2015年)など近年のアルバムでも、バラディアーとしての桑田くんのすごさが炸裂しているよね。曲でいえば、“思い過ごしも恋のうち”や“ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)”(1984年)あたりは、未だに「すごいなあ」と思う。

むしろ、いま聴いたほうがそう思うかもしれない。曲の構造とか、「なぜこう展開するのか?」みたいな受け手としての理解は、いまのほうがちょっと深くなってきているからね。

とはいえ、決して難しいことをしているわけじゃない。転調は少ないし、ある意味ではドレミファの音階だけでどうしてここまでつくれるのだろう? という驚きがあるんですよ。逆に、曲のなかでの場面ごとの譜割の変化などは「こんなこと、どうしたら考えつくのだろう?」と思うし、ヒットした曲はヒットした曲なりのすごさが確実にあるんです。

サザンオールスターズ“思い過ごしも恋のうち”(シングルリリースは1979年7月)を聴く
サザンオールスターズ“ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)”(シングルリリースは1984年6月)を聴く

萩原:僕は、アルバムだと4枚目の『ステレオ太陽族』(1981年)が好きかな。それまでのサザンは「桑田佳祐と、そのバンド」という感じだったけど、このアルバムに収録されている“Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)”あたりでリズム隊が主張しはじめたというか。バンドとしてスケールアップした印象がありました。『NUDE MAN』も好きでしたけど、思い出深いのはやっぱり健太郎くんと一緒で1stかな。

あの頃から知っている身からすると、サザンオールスターズって誰の思惑をも超えちゃったところはあるよね。高垣さん(※)とか、最初は「日本のThe Rolling Stonesにする」みたいなことを言っていたし、僕を含めてほかにもいろんな人がサザンに対しそれぞれの期待を抱いていた。要するに100人いたら100人の見解や切り口があったのは、それに応えられるだけのものをサザンが持っていた証でもあるのだけど。

※筆者注:ビクターエンタテインメントOBで、サザンをはじめ、UAやくるり、斉藤和義らを手がけた高垣健のこと。1977年7月、ヤマハのアマチュアコンテスト「East West」にてサザンオールスターズを発掘。1992年スピードスターレコーズを設立した

サザンオールスターズ“Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)”(シングルリリースは1981年6月)を聴く

萩原:どの人の思惑どおりにもなっていないし、ひょっとしたら桑田佳祐の思惑どおりにすらなっていなかったかもね。さっきも言ったように、やっぱり「学生バンド」だからああなったんだろうな。

高橋:でも、高垣さんの言う「日本のThe Rolling Stone」は言い得て妙かもしれない。だってみんな憧れるわけじゃないですか、「ダチとバンドを組んで死ぬまでやる」みたいなストーリーに。なぜなら、そんなことができた人はほとんどいないからですよ。

The Beatlesも友達どうしでバンドを結成したけど、結局は10年と続かなかった。でも、サザンオールスターズはそれをやってみせたわけじゃない? しかもバンド内に奥さんがいてさ(笑)。「そういうストーリーが現実にあるんだなあ」と思わせてくれた、本当に稀有な存在だと思いますね。

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プロフィール
萩原健太 (はぎわら けんた)

1956年生まれ。音楽評論家、ディスクジョッキー。早稲田大学卒業後、出版社勤務を経てフリーに。主な著書に『70年代 シティ・ポップ・クロニクル』、『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』、『はっぴいえんど伝説』などがある。2014年からは高橋健太郎氏の後を継いでオンライン音楽誌『ERIS』の編集長に。音楽評論のかたわら、音楽プロデュース、コンサート演出、作曲・編曲等も手がける。主なプロデュース作品は米米CLUB『Go Funk』、山崎まさよし『HOME』、憂歌団『知ってるかい!?』、鈴木雅之『Funky Flag』など。現在はFMヨコハマ『otonanoラジオ』のパーソナリティもつとめている。

高橋健太郎 (たかはし けんたろう)

1956年、東京生まれ。音楽評論家、音楽プロデューサー、レコーディング・エンジニア、音楽配信サイト「ototoy」の創設メンバーでもある。一橋大学在学中から『プレイヤー』誌などに執筆していたが、1982年に訪れたジャマイカのレゲエ・サンスプラッシュを『ミュージック・マガジン』誌でレポートしたのをきっかけに、本格的に音楽評論の仕事を始めた。1991年に最初の評論集となる『音楽の未来に蘇るもの』を発表(2010年に『ポップミュージックのゆくえ』として再刊)。1990年代以後は多くのアーティストとともに音楽制作にも取り組んだ。著書にはほかに『スタジオの音が聴こえる』(2015年)、2016年に発表したSF音楽小説『ヘッドフォンガール』がある。



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