(メイン画像:©2020 PM AU FILM, LLC AND RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC ALL RIGHTS RESERVED)
昨年2021年に上映され、コロナ禍にもかかわらず異例の大ヒットを記録した『アメリカン・ユートピア』が3月より全国各地の映画館で再上映されている。
トランプ政権以降、顕著になったアメリカの対立や分断を、デヴィッド・バーンならではのユーモアかつ辛辣な視点で批評しつつ、最高のエンターテイメントに昇華してみせたブロードウェイ公演『アメリカン・ユートピア』。それを、鬼才スパイク・リーがそのままフィルムに焼きつけた同名映画による「映像体験」は、音楽の持つ力、ライブの臨場感などを私たち日本人にも再確認させてくれた。
そこで今回、この映画の魅力についてあらためて掘り下げつつ、主宰者デヴィッド・バーンとはどういう人物なのか、彼が率いるバンドTalking Headsが当時どのように受け止められていたのかを、ピーター・バラカンと高橋健太郎の二人に語り合ってもらった。
異例の大ヒットを記録。『アメリカン・ユートピア』に内包された「ミュージカル性」
―音楽ドキュメンタリー映画としては、異例の興行収入1億円超えの大ヒットを記録した『アメリカン・ユートピア』ですが、このヒットの背景には何があるとお二人は思いますか?
Talking Headsの元フロントマン、デヴィッド・バーンが2018年に発表した同名アルバムを原案に製作した、ブロードウェイのショーを再構築し映画として公開する。バーンが披露する全21曲の楽曲や、現代が抱えるさまざまな問題について話す彼の様子を映し出す。『ブラック・クランズマン』(2018年)のスパイク・リーがメガホンを取った。
高橋:ぼくらの世代だとデヴィッド・バーンの映画といえば、彼の率いるバンドTalking Headsのライブドキュメンタリー『ストップ・メイキング・センス』(1984年)という古典がまず思い浮かぶし、それを知っている人たちが『アメリカン・ユートピア』にも足を運んだと思うんです。だけど、そういった経緯をまったく知らない若い人たちが観てびっくりしたというケースがもう一方であるみたいですね。
バラカン:Talking Headsの名前どころかデヴィッド・バーンの名前すら知らない若い人が、おそらく口コミでこの映画を知り、しかもリピーターになっているという話を聞いて、最初はすごく驚きました。きっと、理屈や文脈を完璧に超えたところで魅力を発揮している作品なのでしょうね。
ぼくの知人で映画配給に携わっている女性が、この映画について「一種のミュージカルのように捉えられたのではないか?」と言っていたんですけど、その見解はぼくも同感です。いわゆる一般的なミュージカルとはまったく違うのだけど、でもその魅力の伝わり方はちょっと似ているのかもしれない。
高橋:もともとデヴィッド・バーンのソロアルバム『American Utopia』が2018年にリリースされ、それを携えたツアーが行なわれた。さらにそれをブロードウェイで上演して、その模様をスパイク・リーが映画にするという、4段階の表現形態があったことが、このプロジェクトの特徴なのかなと思います。
その過程で表現は変化したというのか進化したというのか、バンドでライブをやるということだけではなくなっていったわけですが、その中心には「ミュージカル」への志向があったのは間違いないでしょうね。
デヴィッド・バーンのソロアルバム『American Utipia』を聴く(Spotifyを開く)
―この作品のなかにある「ミュージカル性」は、例えばどんなところに感じるのでしょうか。
高橋:ぼくがミュージカルの話をするのは難しくて。というのも、じつを言うとミュージカルってあんまり好きじゃなかったんですよ。物語を歌で伝える手法にあまり惹かれてこなかったんです。フランスミュージカル映画の金字塔とされる『シェルブールの雨傘』(1964年)とかを観てもピンとこない。カルト的人気の『ロッキー・ホラー・ショー』(1976年)とかは好きなんだけどね(笑)。
若い頃からずっとそういう感じだったのですが、ただ、この10年くらいミュージカル的なものは気になってはいたんです。ピーターはどうだろう?
バラカン:ぼくも基本的にミュージカルはダメ。おそらく世代的なものもあると思う。ぼくらの世代はリアリズムを追求した作品が主流だったし、ミュージカルってまず野暮ったく感じてたんだよね。いや、これはぼくの個人的な意見ですが(笑)。
『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)を観たのは比較的最近です。テレビでたまたまやっていて「あ、なるほどストーリーは面白いな」と思ったけど、でも音楽的にはまったく興味がなかった。劇中曲の“My Favorite Things”は、サックス奏者のジョン・コルトレインがカヴァーしたヴァージョンに限りますね。
高橋:ロック世代にはミュージカルは何かバカバカしさがあって、「セリフで言えばいいものを、なんで長々と歌い上げるんだ?」とか(笑)、そういうところで引っかかってしまうんだと思う。でも、例えば最近観た『コーダ あいのうた』(2021年)はミュージカル性を持った映画だけれど、すごく良かった。ぼろぼろ泣いちゃった。あと、数日前にたまたま配信で見た『ヘアスプレー』(2007年)もすごく良かった。ジョン・ウォーターズが1988年に発表したカルト作品を原作とする、2002年のミュージカルの映画版なんだけれど。なので、ずっとミュージカルを毛嫌いしてきたのだけど、ここ10年くらいで少しずつ、意外に面白いんだって思ってきてたんです。
おそらくデヴィッド・バーンもニューヨークに住みながら、ミュージカルにはそこまで深くコミットしていなかったと思うんですよ。ロックミュージシャンですし。でも、そこを敢えて接近してみたのが『アメリカン・ユートピア』だったのでしょうね。
スパイク・リーがミュージカル? その意外性および「映像作家」としてのチャレンジ精神
―これまでミュージカルに興味のなかったと思われるデヴィッド・バーンが、今回そのフォーマットを取り入れたのはどんな経緯からだったのでしょう。
高橋:これには伏線があるんです。というのも彼は、2010年にFatboy Slimとコラボアルバム『Here Lies Love』をつくっているんですよ。これは元フィリピン大統領夫人イメルダ・マルコスの生涯をテーマにした作品で、歌曲形式で綴っている。これもバーン自身の仕事ではないけれど、ミュージカルになって、上演されているんですよ。おそらくその頃から研究はしていたのだと思う。
デヴィッド・バーンとFatboy Slimのコラボアルバム『Here Lies Love』を聴く(Spotifyを開く)
高橋:それともう一つ、ロックミュージシャンってとにかくツアーに明け暮れるわけじゃないですか。そうではない活動の仕方として、どこか固定の劇場で定期公演を行い、そこにみんなが来てくれるようにしたい気持ちもあったんじゃないかな。そのやり方で、何か新しいことができないか考えたんじゃないかなと。映画『アメリカン・ユートピア』は、バーンが自転車に乗って自宅へ帰っていくシーンで終わるじゃないですか。
バラカン:あれはすごく印象的だったよね。
高橋:そう。自転車で公演会場まで行って、自転車で帰っていくという。ライブが終わるとその日の夜に、ツアーバスに揺られて次の都市へ移動するみたいな、そういうロックミュージシャンにありがちなスタイルとは違う方法を見つけたんじゃないのかなと。
―しかも、そういったミュージカル的な要素のある作品を黒人社会を代表する社会派監督として知られるスパイク・リーが監督しているのもびっくりしました。
バラカン:どうやらデヴィッド・バーンが直接スパイク・リーに頼んだみたいですね。
高橋:まあ、『ストップ・メイキング・センス』を監督したジョナサン・デミも亡くなってしまったしね。リーしかいなかったのかなという気がする。
―スパイク・リーについては、お二人はどんな見解をお持ちですか?
高橋:もちろん大好きですべて観ています。音楽の使い方も秀逸ですし、特に1990年代はブラックミュージックがアメリカの人たちのなかにどう根づいているのか、それが彼らの人生とどう紐づいているかをリーの映画を通じて学んだところもあるから。レコードを買って、その曲を好きになるということ以上に「そうか、ブルックリンの人たちはこんなふうに聴いていたのか」みたいな生の情報を教えてもらいましたね。
バラカン:ぼくもスパイク・リーは、初期作品からずっと観ています。最初の頃は相当とんがっていて、ちょっとメッセージ性が先走っていると感じるところもあったけど、時代とともに彼も歳を重ね、作品も丸くなっていったというか。取り上げているテーマはいまも相変わらず面白いですけどね。
いずれにせよアメリカ社会では、いまも昔も人種問題が一番大きな課題であり、それをリーの視点で考えるのはとても刺激的です。映画監督として、ストーリーテリングなども少しずつ上手になってきていますしね。
高橋:ただ、今回の映画と普段のスパイク・リー作品との関係はちょっとよくわからない。こんな作品を撮ったことがないでしょう。
バラカン:リー本人も、最初はなぜ自分にオファーが来たのか不思議に思ったみたい。でも実際にブロードウェイで『アメリカン・ユートピア』を鑑賞して、「3曲目で引き込まれた」と言っていますね。
おそらく、それまでリーもブロードウェイやミュージカルにはまったく馴染みがなかったはずだけど、完成した本作を観ると撮影の仕方など本当にかっこいい。何台もカメラを使っていろんな角度から撮っているのに、他のカメラがまったく映り込まないんですよ。それってかなり高度な技術を要することだと思います。照明や舞台美術、それを活用した演出もシンプルだけど巧みですし、誰が観ても理屈抜きで「かっこいい」と思わせる映像作品だなと。
高橋:同じテーマを伝えるにしても、ミュージカルや舞台の場合はそのプロセスやルールが映画とはまったく違うだろうし、技術的にも複雑になると思うんですよね。しかもさっき言ったように、コンサートをミュージカルに、ミュージカルを映画にという面倒くさい工程を通過したがゆえの面白さがここにはある気がします。おそらく監督本人も、そこにものすごくやりがいを感じたんじゃないかな。
シリアスなメッセージをユーモラスに。分断が進むアメリカでバーンが鳴らした警鐘
―『アメリカン・ユートピア』は映像作品として純粋に楽しめるだけでなく、そこにはバーンの強い政治的メッセージが込められています。そのバランスについてはどう思いますか?
バラカン:ご存知のように、『アメリカン・ユートピア』はトランプ政権のときにつくられた作品だから、バーンが頭のなかで思い描いている「アメリカン・ユートピア的なもの」と、現実に対する皮肉の部分が両方並んでいる気がします。
高橋:そうですね。「アートを表現する」ということより何より、「みなさんにいますぐ伝えたいメッセージがあるんです!」という、バーンの切羽詰まった気持ちが込められてる。音楽を止めて喋ってもいいような、ライブとは異なるフォームが必要だったのだと思う。
バラカン:ブロードウェイに持っていったのが2018年。ちょうどトランプが大統領になって1年くらいだから、相当みんなのフラストレイションも溜まっていた頃だし、確かにそういう思いもかなりあったでしょうね。
高橋:例えばアメリカの分断が進み、トランプ支持者はFOXチャンネル、バイデン支持者はCNNニュースしか見ないといった、メディアによる人々の洗脳のされ方について、バーン自身も警鐘を鳴らしたかったはず。ステージの周りをチェーンのようなもので囲っていますが、あれはブラウン管の走査線のようにも見えるんですよね。
公演のなかで、St. Vincentとのコラボ曲“I Should Watch TV”(オリジナルは2012年『Love This Giant』収録)も取り上げていますが、テレビ文化に染め抜かれたアメリカに対して「それでいいの?」と訴えたい気持ちが強くあったんじゃないかと思うわけです。
『American Utopia on Broadway』より“I Should Watch TV”を聴く(Spotifyを開く)St. Vincentとのコラボアルバム『Love This Giant』収録のオリジナル版“I Should Watch TV”を聴く(Spotifyを開く)
バラカン:しかもそのメッセージの伝え方に、ちょっとユーモアを持たせているんですよね。例えば投票率の低さや平均年齢の高さについて、客席のオーディエンスをいじりながら面白おかしく伝えている。観ていてつい笑ってしまうシーンですが、こういうところ、バーンは巧みだなと思います。
高橋:作品全体のトーンもすごく肩の力が抜けているんですよね。シリアスなメッセージをシリアスなまま突きつけてしまうと、すごくシニカルなものになってしまうから、そうではない語り口をすごく意識している。
バラカン:映画の中盤、バンドメンバーを紹介するシーンがあるじゃないですか。そこで移民の話になり、バーン自身も子どもの頃にスコットランドから家族とニューヨークに引っ越してきたエピソードや、バンドメンバーも全員移民であることを明かします。そのうえで、「移民こそがアメリカに一番貢献している」と結論づけるところなんて「上手いなあ」と思いましたね。
高橋:そして、やはり音楽の使い方ですよね。ファンクを中心にアッパーで踊れる楽曲をセットリストの主軸に置いている。Talking Headsの過去の曲の取り上げ方が、また上手いんですよ(笑)。
“I Zimbra”(1979年『Fear of Music』収録)や"Once in a Lifetime"(1980年『Remain in Light』収録)、“Burning Down the House”(1983年『Speaking in Tongues』収録)といった代表曲を、いまこの時代に聴いてまたワクワクできるのは、ぼくら世代にとっては嬉しいところです。しかもそれに対して、デヴィッド・バーンもTalking Headsも知らない若者たちまで、一緒になってワクワクできたところが『アメリカン・ユートピア』最大の魅力です。
Talking Heads“I Zimbra”を聴く(Spotifyを開く)『American Utopia on Broadway』収録の“I Zimbra”を聴く(Spotifyを開く)
場内を練り歩くマーチングバンド。「ドラムセットを解体し、みんなで行進しよう」
―ライブの最後は、まるでマーチングバンドのように場内を練り歩きます。その光景にジャネール・モネイによる“Electric Lady”のMVや、ビヨンセのコーチェラライブを連想した人も多かったようですね。
バラカン:普通のドラムセットだと立って歩けないから、リズムを奏でるパーカッション奏者があれだけたくさん必要だったのでしょう。それがマーチングバンドに喩えられるのも肯けます。
高橋:ドラムセットというのは、19世紀の終わりにニューオーリンズの小太鼓奏者“ディー・ディー”エドワード・チャンドラーによって考案されたのですが、あれってマーチングバンドが演奏している打楽器を一つのキットとしてまとめたことから始まっているんです。そうすれば演奏者が一人でもビートを叩き出せるという省エネ的な「発明」だったわけですよね(笑)。
高橋:そうした歴史を踏まえてみると、今回ドラムセットからマーチングバンドへと戻っていくというコンセプトがひょっとしたらあったのかもしれないですね。ドラムセットだと固定されたステージが必要になる、でもドラムを持ち歩ける状態にすれば、いつでもどこでも叩くことができるわけですから。
「20世紀の文化であるドラムセットを解体し、みんなで行進しようよ」みたいなノリが、バーンのなかにあったとしても不思議じゃない。『アメリカン・ユートピア』のバンドがマーチングバンドを意識しているという発想は、いま言われるまで考えたことがなかったけど、それは一理あるのかもしれないですね。
ブラジリアンミュージックをフックアップしたバーンの慧眼
―ところで、Talking Headsやデヴィッド・バーンの音楽的な魅力については、お二人はどう思っていますか?
高橋:ぼくは1978年のセカンドアルバム『More Songs About Buildings and Food』くらいからずっとリアルタイムで聴いているのだけど、彼らが何かやるたびに「えー!」って驚かされてきました。
バーン自身の出自はパンクで、何というか「ぎこちなさ」みたいなものがつねにつきまとっているんですよ。ミュージシャンとしてものすごくしなやかというわけでもないのに、「え、そんなことをやるの?」みたいな挑戦をつねにしてきた。それを実現するために持ちこむ素材や共演するミュージシャン、そのあたりの嗅覚というかセンスは抜群なんです。しかもそれを、この年齢までやり続けているのはすごいことですよね。
バラカン:同感です。あと、彼はダンスミュージックが好きなんだろうね。Fatboy Slimしかり、St. Vincentしかり。ラテン音楽にも造詣が深いし、自身の作品でもかなりブラジルに特化したものがあったりして。彼が設立したレーベルLuaka Bopからは、中南米のロックアルバムをいろいろ出していましたよね。
高橋:今回のバンドのなかにもブラジル出身のメンバーが含まれていますしね。例えばアメリカにおいて、ブラジリアンミュージックが一定の知名度を得たのは1990年代のバーンの功績がものすごく大きい。ブラジル音楽界の重鎮であるカエターノ・ヴェローゾだって、バーンとアート・リンゼイがいなかったらアメリカであそこまで人気は出ていなかったはずです。
バラカン:うん、そうかもね。
高橋:彼自身はブラジル音楽を奏でるのはそんなに得意じゃないと思うんだけど、そういうミュージシャンを引っ張ってくるのは本当にうまいんですよ。
―今日、こうしてお二人のお話をうかがったことで、『アメリカン・ユートピア』をより深く楽しむためのヒントをたくさんいただきました。
高橋:いろいろ話しましたが、じつはあんまり情報を入れないでまっさらで観て面白い映画だとも思うんですよね。デヴィッド・バーンの下調べなんて、始めちゃったらキリがないし(笑)。まずは観てみて、気になったところを調べてもう一回観る方が楽しめる作品なのかなと思います。いまはこんな世界情勢になってしまったから、そんななかで見たらまた違う感情が湧いてくるかもしれないですし。
バラカン:同感です。
高橋:ぼくも実際に観るまでは、ここまでインパクトがある面白い映画だとは思っていなかったんですよ。アルバムも聴いていたし、何となくその延長線上のミュージカルみたいなものになるのかなって、大体想像するじゃないですか。ところがその想像を遥かに超えた内容だったから感動したわけで、とにかくまずは観るしかないと思う。
バラカン:それと、やっぱりこの映画は劇場で観てほしいですね。スマホやパソコンの画面で見るのと比べると、まったく違う作品かと思うくらい迫力や臨場感がありますから。
- 作品情報
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- 『アメリカン・ユートピア』
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監督:スパイク・リー
製作:デヴィッド・バーン、スパイク・リー
出演ミュージシャン:
デヴィッド・バーン
ジャクリーン・アセヴェド
グスタヴォ・ディ・ダルヴァ
ダニエル・フリードマン
クリス・ジャルモ
ティム・ケイパー
テンダイ・クンバ
カール・マンスフィールド
マウロ・レフォスコ
ステファン・サンフアン、アンジー・スワン
ボビー・ウーテン・3世©2020 PM AU FILM, LLC AND RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC ALL RIGHTS RESERVED
- プロフィール
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- 高橋健太郎 (たかはし けんたろう)
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1956年、東京生まれ。音楽評論家、音楽プロデューサー、レコーディング・エンジニア、音楽配信サイト「ototoy」の創設メンバーでもある。一橋大学在学中から『プレイヤー』誌などに執筆していたが、1982年に訪れたジャマイカのレゲエ・サンスプラッシュを『ミュージック・マガジン』誌でレポートしたのをきっかけに、本格的に音楽評論の仕事を始めた。1991年に最初の評論集となる『音楽の未来に蘇るもの』を発表(2010年に『ポップミュージックのゆくえ』として再刊)。1990年代以後は多くのアーティストとともに音楽制作にも取り組んだ。著書には他に『スタジオの音が聴こえる』(2015年)、2016年に発表したSF音楽小説『ヘッドフォンガール』がある。
- ピーター・バラカン
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1951年ロンドン生まれ。ロンドン大学日本語学科を卒業後、1974年に音楽出版社の著作権業務に就くため来日。現在フリーのブロードキャスターとして活動、『バラカン・ビート』(インターFM)、『ウィークエンド・サンシャイン』(NHK-FM)、『ライフスタイル・ミュージアム』(東京FM)、『ジャパノロジー・プラス』(NHK BS1)などを担当。著書に『ロックの英詞を読む~世界を変える歌』(集英社インターナショナル)、『ラジオのこちら側』(岩波新書)『わが青春のサウンドトラック』(光文社文庫)、『ピーター・バラカン音楽日記』(集英社インターナショナル)、『猿はマンキ、お金はマニ』(NHK出版)、『魂(ソウル)のゆくえ』(アルテスパブリッシング)、『ぼくが愛するロック 名盤240』(講談社+α文庫)などがある。