アーティストの音楽史をディープに振り返る、Spotifyの「聴く」ドキュメンタリー『ArtistCHRONICLE』。その第三弾に藤井フミヤが出演し、幼少時代のエピソードからチェッカーズ時代、そしてソロ活動まで本人の肉声で振り返っている。
今年9月にデビュー40周年を迎えるチェッカーズは、1980年代のアイドル全盛のなかオリジナリティー溢れる音楽性とファッション性で圧倒的な人気を博した。これまであまり本人の口から語られることのなかった当時のエピソードはもちろん、10代のフミヤを夢中にした50sカルチャーの魅力についても聞いた。
キャロルに『アメリカン・グラフィティ』。藤井フミヤのルーツであり、地元・久留米を席巻した50sカルチャー
─Spotifyの『ArtistCHRONICLE』によれば、フミヤさんが最初にご自身で購入したレコードはキャロルの『燃え尽きる=ラスト・ライヴ』(1975年)だったそうですね。
藤井:はい。それまではテレビで流れている歌謡曲を主に聴いていたのですが、「聴く側」から「演る側」になったきっかけがキャロルでした。
たとえばThe Ramonesを聴いてアマチュアバンドが増えたみたいな、「俺たちにもできるんじゃないか?」と思わせる力がキャロルにはあったんですよ。きっとThe Beatlesもそういう存在だったと思うのだけど。
─そもそもキャロルはどんなきっかけで聴くようになったのですか?
藤井:当時のティーンエイジャーは全員キャロルの洗練を受けている、と言っていいぐらいのところがあると思います(笑)。いまでいうニューミュージックやフォークなどが全盛だった頃に、もうひとつのジャンルとしてロックンロールがあって。周りの友だちはみんなキャロルを聴いていましたね。
藤井:中学生とか高校生の頃、キャロルに限らず50sの音楽やファッションがめちゃくちゃ流行っていたんです。ちょっと不良っぽいファッションにも魅力を感じていたのかもしれないな。
─映画『アメリカン・グラフィティ』(1973年)も好きだったと『ArtistCHRONICLE』のなかでおっしゃっていましたね。
藤井:『アメリカン・グラフィティ』(※)もそうだし、『グリース』(1978年)や『グローイング・アップ』(同年)なんかも友だちと観に行きましたね。映画の中で流れているロックンロールやドゥーワップも、すごく魅力的に感じていた時期でした。
─フミヤさんの地元、久留米のライブハウスには、50年代的な音楽を演奏するバンドが多かったのですか?
藤井:「50s一色」といってもいいくらい流行っていました。それに比べると、福岡はもっとロックでしたね。いわゆるサンハウス以降のビート系のロック、シーナ&ロケッツ(以下、シナロケ)、ルースターズ、ロッカーズ、THE MODSとか。あの頃はみんなヘアスタイルやファッションなど、結構「形」から(50sカルチャーに)入っていったところもありました。
※筆者注:ジョージ・ルーカス監督による、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争に突入する前のアメリカの若者たちを描いた群像劇。劇中で流れるThe PlattersやBooker T. & the M.G.'sの楽曲も話題に。若き日のハリソン・フォードが不良役で出演している
高校生の藤井フミヤは、なぜ、どのようにして50sカルチャーに夢中になっていったのか
藤井:あの頃は、ロックンロールとは別に「暴走族」という文化があったんですよ。『ArtistCHRONICLE』でも話しましたが、同じリーゼントヘアでもロックンローラーはグリースで整え、暴走族はパンチパーマで固めるっていう(笑)。
洋服も、暴走族はストーンウォッシュのボンタンジーンズにつっかけを履いた、いわゆるヤンキーファッションなので、50sとは程遠くて。どっちかというと横浜銀蝿とかに近いのかもしれない。
─50sファッションが、日本独自のスタイルへと突き進んでいる感じでしたよね。
藤井:そうそう。当時は男性向けのファッション雑誌ってまったくなくて。『POPEYE』はどちらかというとサーファー情報誌だったし、内容もアメリカの西海岸寄り。なので、女の子が読む『mc Sister』とかに載っている50sファッションを、高校生の頃は参考にしていましたね。
ときどき「原宿特集」とか組まれ、CREAM SODA(※)やPEPPERMINTみたいな50s系のショップを紹介してましたし。まあ、高校生の頃はなけなしのお小遣いでシャツ一枚買うのが精一杯でしたけど。それか古着を買うことが多かったかな。
※筆者注:のちにPINK DRAGONを設立する山崎眞行が、1970年代に立ち上げた50sショップ。もともとはロカビリーを中心とした1950年代の古着が並んでいたが、同名ブランドを立ち上げロッカーズの聖地となる
藤井:親から「お下がり」をもらうこともありましたね。ハンドバッグやコート、ジャケットなどは合わせやすかったんですよ。いまも1990年代ファッションが流行ったりしたけど、ファッションって一回りして親世代のものがクールに感じることってあるじゃないですか。ちょっと前に、ベルボトムなどの1970年代ファッションが流行ったときもそうだし。
─50sカルチャーはほかのカルチャーと違い、廃れずに脈々と受け継がれている気がします。
藤井:きっと多くの日本人は1950年代の「豊かなアメリカ」に、憧れがあるんじゃないかな。「昭和」を相変わらず懐かしむ感覚に似ているのかもしれない(笑)。高度成長期まっただ中の昭和はハートも豊かで経済的な余裕もあり、もっといえば「希望」もあった、みたいな幻想に(「豊かなアメリカ」への憧れは)近い気がする。
─キャロルをはじめロックンロールに影響を受けたフミヤさんは、コードやチューニングの概念もないままエレキギターを買ったそうですね。そこからどうやって上達していったのですか?
藤井:中学生の頃は、同じようにバンドをやっている先輩からいろいろ教えてもらっていました。高校では軽音楽部に入ったので、そこで学んだことも大きかったです。最初はキャロルのカバーから始めて、高校生くらいからは洋楽のカバーをやっていました。チェッカーズになると、もう少しマニアックにドゥーワップをやったり、The Beatlesの曲をいくつか取り上げたりしていましたね。
YMOらニューウェーブの衝撃を受けて80sに傾倒。チェッカーズのデビュー期を振り返る
─『ArtistCHRONICLE』ではYellow Magic Orchestraの話もされていました。『RYDEEN』(1980年)が空前のヒットを記録したのは、フミヤさんが高校を卒業するくらいの時期ですよね。
藤井:そうですね。シンセサウンドのインパクトはかなり大きかった。ただ、テクノカットとかは田舎じゃそこまで流行らなかったかな(笑)。どこか「都会の音楽」というイメージはありました。最初の方の頃のYMOはフュージョンっぽさもあったじゃないですか。
自分はどちらかといえばプラスチックスのように、ロックバンドっぽさが残っている方がやっぱり好きなんでしょうね。シナロケも、細野さんがプロデュースを手がけた3rdアルバム『チャンネル・グー』(1980年)とか、バンドサウンドに電子音が混じっている感じが好きだったし。
藤井:テクノポップというよりニューウェーブに惹かれていたのかもしれない。洋楽も、どちらかといえばハードロック全盛のUSよりも、パンクやニューウェーブが主流だったUKの方が好みでした。ただ、ニューヨークには好きなバンドもたくさんいたけどね。
─チェッカーズが「Cute Beat Club Band」という変名ユニットでリリースした『親愛なるジョージ・スプリングヒル・バンド様』(1985年)は、曲間にスネークマンショーのような寸劇が入っていたじゃないですか。YMOの『増殖 - X∞ Multiplies』(1980年)をオマージュしたのかと思っていました。
藤井:あれは、プロデューサーだった秋元康さんのアイデアなんですよ。なので、おっしゃるようにYMOの影響は間違いなく大きいと思います。
─『親愛なるジョージ・スプリングヒル・バンド様』はタイトル自体もそうですが、「チェッカーズが変名でコンセプトアルバムをリリースする」というアイデアも、The Beatlesの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』をオマージュしたものですよね。
Cute Beat Club Band『親愛なるジョージ・スプリングヒル・バンド様』を聴く / YMO『増殖』はこちら(Spotifyを開く)
─一方で、チェッカーズがオリジナル曲にチャレンジしたアルバム『Flower』は、The Rolling Stonesの『Their Satanic Majesties Request』(1967年)のアートワークにインスパイアされていると感じていました。フミヤさん自身は、The Beatlesと、The Rolling Stonesからの影響って大きいですか?
藤井:The Beatlesは、聴いてないこともなかったし知っている曲もまあまあ多かったんですけど、The Rolling Stonesは通ってないですね。そう考えると、60sよりも50sの方がポップで好きだったんだと思います。それか80sポップ。ニューウェーブもそうですが、マドンナやマイケル・ジャクソン、プリンスあたりは大好きでした。いわゆる「MTVポップ」ね。この頃になってくると、UKよりも俄然USの方が強くなる。
チェッカーズもデビュー当時は歌謡曲っぽい曲を演奏していたんだけど、わりとすぐにパンクやニューウェーブに傾倒していって。メンバーもみんなクラブへ通うようになっていたし、ブラックミュージックなんかもよく聴くようになっていました。自分たちでオリジナル曲をつくるようになってからは、そういう音楽からの影響を積極的に取り入れていましたね。
─チェッカーズとしてデビューを果たした1983年、フミヤさんは現在のJR九州に就職されており、上京時にはお父様から猛反対されたそうですね。
藤井:もう就職していたしね。
─「安定した暮らし」を手放しミュージシャンとして生計を立てていくことに、不安や葛藤などはなかったのでしょうか。
藤井:『ArtistCHRONICLE』でも話したけど、当時の国鉄は「民営分割化」で一番揺らいでいるときで、組合と当局がつねに衝突していたんですよ。若輩ながら、「このままここにいてもダメなんじゃないか?」と思っていました。
このあいだまで仲間だと思っていた人間が、試験にパスして出世した途端に敵に回ることがめちゃくちゃ多くて。ここじゃ出世できないんだって。実際、民営分割化が成し遂げられた途端に自分の同期が切られたりしていましたしね。そんな状況に対して先行き不安になっていました。
国鉄を辞めてミュージシャンになるタイミングとしては、これ以上なかったのだと思います。東京に対する憧れも半端なかったんですよ。このまま久留米にいるよりは、人生一度きりのチャレンジはしてみたいと。だから不安や葛藤なんてものはまったくなかったですね。若かったし(笑)。
なぜチェッカーズは一世を風靡することができたのか。その要因を自ら分析
─芹澤・売野(※)コンビが提供した楽曲、堀越絹枝さんによる全身チェックのスタイリング、秋山道男さんによる総合プロデュースなど、当時のチェッカーズの売り出し方についてはいまどのように振り返りますか?
藤井:たとえば、チェッカーズがゴリゴリのロックバンドだったら、“ギザギザハートの子守唄”(1983年)なんて受け入れていないと思うんですよ。でも、僕らの音楽性の軸にはドゥーワップや50sロックがあったから、“涙のリクエスト”なんかはポール・アンカの“Diana”っぽさみたいなところを楽しめたんです。
※筆者注:初期チェッカーズは作詞家に売野雅勇、作曲家に芹澤廣明を迎え、このコンビで“ギザギザハートの子守唄”や“涙のリクエスト”など大ヒットを連発した
藤井:提供曲を歌うことに対しても、まだ僕らはオリジナル曲のレパートリーもなかったし、曲づくりのスキルもまだ全然なかったので、「絶対に自分たちの曲しかやらない」みたいなこだわりがなかった。
「デビューできるチャンスなんだから、とりあえず乗っかっておけ」という感じでしたよ。流れに逆らわず受け入れていく柔軟性は、全員があったのだと思います。ただ、あんなふうにアイドル的な人気になるとは、まったく思っていなかったですね。そこは自分たちでも驚いていました。
─なぜ、当時の人たちはチェッカーズに対して熱狂したのでしょう。
藤井:まず1番の理由は「ファッション」ですね。ビジュアル。あれは完全なニューウェーブでしたよね。Culture Clubとか、ああいう感じ。
─たしかに。髪型やカラフルな衣装などKajagoogooやThompson Twins、ハワード・ジョーンズあたりも彷彿とさせました。
藤井:そうそう。そこにベタベタな歌謡曲というか、日本人の琴線に触れるマイナー調のコードやメロディーをかけ合わせたのがチェッカーズ。当時プロデューサーが「エイティーズ・フィフティーズをつくりたい」と言っていたらしいんですよ。1980年代のセンスで50sをとらえなおすということだと思うんですけど、言い得て妙ですよね。
しかも、僕らと同世代のバンドがほかにいなかったんです。いたとしても、オーディションなどで無理やりくっつけられたような即席バンドが多かった。僕らは久留米から「集団就職」しに来てますからね(笑)、その結束力みたいなもの、醸し出している「田舎の不良の兄ちゃん」っぽさが良かったんじゃないかな。
歌謡界のど真ん中に身を置き、藤原ヒロシや高木完らと交流していた80年代。藤井フミヤが大事にしてきたこと
─チェッカーズは通算12枚目の“NANA”(1986年)で、シングルとしては初のオリジナル曲にチャレンジしました。この頃からフミヤさんのファッションも、チェックからモノトーンへと変化するなど音楽以外の部分でも次のフェーズに移行していましたよね。『ArtistCHRONICLE』では、当時The Clashをよく聴いていたと話していましたが、やはりパンクファッションからの影響も大きかったのでしょうか。
藤井:それもあるし、あとはストリートファッションじゃないかな。Run-D.M.C.がアディダスをクールに着こなしていて、そういうヒップホップのファッションをパンクの連中も取り入れていたんですよ(※)。
※筆者注:Run-D.M.C.がエアロスミス“Walk This Way”のカバーで大ヒットを記録したのは、チェッカーズが“NANA”をリリースした1986年。ハードコアパンクバンドThe Young Aboriginesのメンバーから結成されたBeastie Boysが、1stアルバム『Licensed to Ill』をリリースしたのも同年。いずれもアディダスを愛用し、そのスタイリングは当時のストリートファッションの主流となった
─いずれにせよ、歌謡界のど真ん中にいたチェッカーズが、どんどん変化していっている様子がブラウン管越しにも伝わってきて非常にスリリングでした。
藤井:僕自身、いわゆる歌謡界とか芸能界にはその頃まったくなじめなくて。どちらかというとアンダーグランドなクリエイターに憧れていたし、そういう人たちとばっかり遊んでいました。桑原茂一さんや藤原ヒロシくんとか、ミュージシャンでも高木完ちゃんや立花ハジメさんとかね。クラブに行けば彼らと遭遇する機会も多かった。狭い世界ですからね、東京アンダーグラウンドは(笑)。
当時はファッションも音楽も、クラブのような現場で学んでいたところはありました。いまはその気になれば「探せない音楽」ってないじゃないですか。誰しも簡単に、自分が聴きたい音楽にアクセスできるけど、当時は現場へ行かないと聴けない音楽がたくさんあったんです。
─さっきフミヤさんは、「流れに逆らわず受け入れていく柔軟性」があったとおっしゃっていました。それがあったからこそ、激動するシーンの中でも最先端を走り続けてこられたと思うんですよね。
藤井:なんか、いつも新しいものを探していたんですよね。新しいお店ができたらとりあえず行ってみるし。
─アップルコンピュータも、ソロ活動を始めた頃にいち早く手に入れたと『ArtistCHRONICLE』でおっしゃっていましたし。
藤井:すぐ買いましたね。仕組みも使い方もよくわからないけど、とりあえず手に入れてみるのはエレキギターと同じです(笑)。アップルコンピュータを買ったばかりの頃は、インターネットにも繋げていなかったですからね。単体のコンピュータとして、内蔵されてるソフトで遊んでいただけ(笑)。いまは情報もコンテンツもめちゃくちゃたくさんあるから、ついていくだけで大変ですよね。バージョンアップさせるだけでひと苦労……ギリギリでやっていますよ。
─(笑)。60代に入り、これから表現者としてどのような道を進んでいきたいと考えていますか?
藤井:ここまでくると、もはや「引退」の理由が健康を害する以外にないんですよ(笑)。自分より先輩方を見ていても、リタイアされる方って大抵どこか病気になるとか、そういう健康上の理由じゃないですか。なので身体には気をつけながら、歌えるところまで歌いたいですね。
ステージに立って歌うことそのものが、自分にとってのライフワークになっているし。ファンも同じ時代を一緒に生きて、一緒に歳を重ねているわけだから、そういう人たちの気持ちに寄り添うような歌を今後も歌っていきたいです。
- プロフィール
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- 藤井フミヤ (ふじい ふみや)
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1962年7月11日生まれ、福岡県出身チェッカーズのボーカルとして1983年にデビュー。数多くのヒット曲を送り出し、1980年代を代表するバンドに。チェッカーズ解散後の1993年、フジテレビ系ドラマ『あすなろ白書』の主題歌“TRUE LOVE”でソロデビュー。2023年にデビュー40周年を迎え、同年9月から、2024年の5月にかけて全47都道府県全国ツアーを開催。