アンビエントミュージックの先駆者ブライアン・イーノ。小山田圭吾らのコメントからその才能に迫る

ビジュアル・アートに革命をもたらした英国出身の音楽プロデューサーであるブライアン・イーノ。彼の主要3作品と世界初公開作品が一堂に会する展覧会『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』が、京都を舞台に開催中。音と映像、そして空間を融合させたインスタレーションによって大好評を博し、2週間の会期延長も決まった。

Roxy Musicのメンバーとしてはもちろん、デヴィッド・ボウイやTalking Heads、U2などのプロデューサーとして数々の名盤を残し、現在はアンビエントミュージックの先駆者として存在感を放ち続けるブライアン・イーノとはいったい何者なのか。その多彩な経歴について、シンコーミュージックの荒野政寿が解説。

また、ブライアン・イーノからクリエイティブなインスピレーションを受けてきた3名のアーティスト、小山田圭吾、岩井莉子(LAUSBUB)、小林祐介(THE NOVEMBERS / THE SPELLBOUND)からのコメントにより、イーノの多角的な魅力を検証していく。

Roxy Musicを経てソロアーティストへ。デヴィッド・ボウイの「ベルリン三部作」にも貢献(文:荒野政寿)

「僕たちはいつも彼の一歩後ろにいる」と、MGMTが“Brian Eno”で歌ったのは2010年。あれから12年経ったいまもなお、多くの人にとってブライアン・イーノとはそういうイメージのアーティストであり続けているはずだ。しかし膨大かつ多岐にわたる作品群は、後追いしようとすると取っつきにくいのも事実。京都で展覧会『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』が開催されている記念すべき年に、本稿では主に後世に与えた影響に重きを置いて、駆け足で彼の歩みを解説していこう。

イーノは第二次世界大戦の終戦から約3年後、1948年5月15日にイングランド東部のサフォーク州で生まれた。地元のアート学校でトム・フィリップスに師事(彼の絵画「After Raphael」は、のちに『Another Green World』のジャケットを飾る)。アートを学ぶかたわら、仲間とグループを組んで前衛音楽の探求も始めたイーノは、1969年にロンドンへ移住する。音楽家として生計を立てるつもりだったが現実は厳しく、アルバイトやスピーカーを修理して売る仕事で食いつないだ(もともと機械いじりが得意で、手先は器用だった)。

Roxy Music『Roxy Music』を聴く

そんなイーノに転機をもたらしたのは、電車でたまたま再会した旧友のサックス奏者、アンディ・マッケイ。彼の誘いでRoxy Musicに参加したイーノは、シンセサイザーやテープ操作を担当、デビュー作『Roxy Music』(1972年)に奇抜な彩りを加える役割を果たした。派手なメイクと衣装で身を固め、主役のブライアン・フェリーと張るほど注目を集めたイーノだったが、方向性の違いから次作『For Your Pleasure』(1973年)を最後にバンドを脱退。早速King Crimsonのロバート・フリップとスタジオに入ってコラボした、フリップ&イーノ名義の実験的なアルバム『(No Pussyfooting)』(1973年)を発表。ここで試したテープレコーダーを駆使したサウンドづくりが、のちのアンビエントミュージック作品で応用される。

続いて『Here Come The Warm Jets』(1974年)、『Taking Tiger Mountain (By Strategy)』(1974年)、『Another Green World』(1975年)と、「歌もの」のソロ作を発表。持ち前の実験精神を存分に発揮した、アートポップのお手本のような3作だ。『Here Come The Warm Jets』に収められた“Needles In The Camel's Eye”は、映画『ベルベット・ゴールドマイン』(1998年)で使用されたことでもお馴染み。元Galaxie 500のディーン・ウェアハムが結成したLunaがライブでこの曲を演っていたし、Queens of the Stone Ageもカバーした人気曲だ。“Baby's On Fire”は、Yo La Tengoが取り上げた。

ブライアン・イーノ『Here Come The Warm Jets』を聴く
ブライアン・イーノ『Taking Tiger Mountain (By Strategy)』を聴く

『Taking Tiger Mountain (By Strategy)』はポストパンク勢から支持が厚い作品で、Bauhausは“Third Uncle”をモータウンビートに乗せてカバー。A Certain Ratioは、“True Wheel”の歌詞の一節からバンド名を取った。“Burning Airlines Give You So Much More”は、歌詞に「京都」が出てくる点に注目。このエキゾチックな曲を、ジェイソン・フォークナーは原曲に忠実なアレンジでカバーした。ワシントンD.C.のポストハードコア・バンド、Burning Airlinesも、この曲からバンド名をもらっている。

Bauhaus“Third Uncle”を聴く

『Another Green World』は、これまでのアートポップと、アンビエントの時代の狭間に位置する過渡期的な作品。現代音楽からフュージョンまで幅広い影響を飲み込み、巧みなバランス感覚でトータル性の高いアルバムに仕上げた。The Orbのアレックス・パターソン&トーマス・フェルマンや、ハロルド・バッドも、お気に入りの1枚として本作を挙げている。そして未来の共演相手、デヴィッド・ボウイも本作のファンだった。

ブライアン・イーノ『Another Green World』を聴く

1975年にはObscure Recordsを立ち上げて、前衛的な作品のリリースを始める。このレーベルから1978年までの間に、ギャヴィン・ブライアーズ、マイケル・ナイマン、Penguin Cafe Orchestraなどの作品、そして実質的にアンビエントミュージックに足を踏み入れたアルバム『Discreet Music』(1975年)を世に送っている。

一方、「プロデューサー」イーノの需要も高まり始める。Televisionに目をつけたIsland Recordsが、イーノとバンドを引き合わせてデモを録らせたのが1974年の暮れ。しかしメンバーと相性が合わず、破談となった。続いて、アイランドはUltravoxのデビュー作『Ultravox!』(1977年 / 録音は1976年)のプロデュースを依頼。フロントマンのジョン・フォックスによると、製作終盤の1976年9月頃、デヴィッド・ボウイからイーノに『Low』(1977年)への参加を要請する電話が掛かってきたそうだ。

その後イーノはデヴィッド・ボウイの通称「ベルリン三部作」、『Low』『"Heroes"』(1977年)、『Lodger』(1979年)に参加してサウンドづくりに貢献。客演扱いでプロデューサーとしてのクレジットこそ与えられなかったが、これら3枚での存在感がイーノというブランドに箔をつけた(プロデューサーとしてボウイの作品にクレジットされたのは、1995年の再会作『1. Outside』が最初で最後)。

デヴィッド・ボウイ『“Heroes”』を聴く

さらにTalking Headsの『More Songs About Buildings And Food』(1978年)と『Fear Of Music』(1979年)、DEVOの『Q. Are We Not Men? A: We Are Devo!』(1978年)、The ContortionsやDNAが参加した伝説的なコンピレーション『No New York』(1978年)を次々にプロデュース。旧世代を忌避したパンク / ニュー・ウェイブ世代からも、イーノは「特例」として存在を認められていた感がある。

そんな激務期に入る直前に発表したポップ作品、『Before And After Science』(1977年)は、旧知の仲であるフリップやBrand Xの面々を起用しながら、サウンドにはアフロビートや新世代のミュージシャンから受けた刺激を反映。この頃コラボしていたClusterのメビウス&ローデリウス、Canのヤキ・リーベツァイトなども客演しているが、“No One Receiving”などではフェラ・クティへの目配りを感じさせる。“King’s Lead Hat”は、タイトルがTalking Headsのアナグラムになっていた。

ブライアン・イーノ『Before And After Science』を聴く

アンビエントミュージックへの接近。Talking HeadsやU2など、プロデューサーとしても数多くの名盤を残す(文:荒野政寿)

1978年の秋に発売された『Ambient 1: Music For Airports』から、アンビエントミュージック作品のリリースが続いていく。着想はエリック・サティが提唱した環境音にとけ込む音楽や、ジョン・ケージなどから得たものだが、「こうした音楽に名前をつけること」の重要性をイーノは感じていた。「興味深いものであると同時に、無視できるものでなければならない」と定義付けられたこの表現は、ジャンルとして定着していく過程でニュアンスが変わってしまい、イーノを困惑させもするのだが。いずれにせよ、イーノの試みがなければ、KLFの『Chill Out』(1990年)やAphex Twinの作品は、いま知られているようなかたちにはなっていないだろう。ちなみに、イーノが初めてビデオ機器を購入、映像にのめり込みはじめたのも1978年のことだった。

ブライアン・イーノ『Ambient 1: Music For Airports』を聴く

プロデューサーとしてのイーノは、フェラ・クティのレコードをTalking Headsに薦め、アフロビートを取り入れた『Remain In Light』(1980年)を完成させる。本作はその後数多くのフォロワーを生むが、なかでも忘れられないのがアンジェリック・キジョーによるリメイク盤(2018年)だ。本作を敬愛するVampire Weekendのエズラ・クーニグや、Blood Orangeのデヴォンテ・ハインズに加え、インスパイア源であるフェラ・クティのバンドのドラマー、トニー・アレンまでも参加。「古典」を鮮やかに再定義してみせた。

デヴィッド・バーンとのコラボから、『My Life In The Bush Of Ghosts』(1981年)も生まれている。サンプリングを大胆に導入、中東のエッセンスも加えた本作は、後年再評価の声が高まり、2006年にはボーナストラックを加えた拡大盤としてリイシューされた。

プロデューサーとして新たな転機になったのが、U2の『The Unforgettable Fire』(1984年)。バンドのギタリスト、ジ・エッジがイーノの音作りに注目していたこと、メンバーがTalking Headsの作品を愛聴していたことが起用の決め手となった。しかし、その頃イーノは音楽制作から退いてビデオアーティストになることを考えていたという。

それまでと異なるレコーディング空間づくりを求められたイーノは、エンジニアのダニエル・ラノワを伴って参加。ギターの奏法やエフェクターについてもアイデアを出し、印象的なサウンドを構築していった。それまでのスタイルに固執せず、即興性も持ち込むよう指示したイーノのもとで生まれ変わったU2は、同じチームで『The Joshua Tree』(1987年)という傑作をものにする。そして同作の大きすぎる成功で方向性に迷ったU2を救う役割も、イーノ&ラノワが果たした。ベルリン録音を含む心機一転のアルバム『Achtung Baby』(1991年)以降、イーノは『Zooropa』(1993年)、Passengers名義で発表したU2とのコラボ作『Original Soundtracks 1』(1995年)に参加。その後も断続的に彼らの作品を手がけていく。

U2『Achtung Baby』を聴く

1990年代には、いわゆるシューゲイザーとも接点を持った。Slowdiveのニール・ハルステッドはイーノに2作目『Souvlaki』(1993年)のプロデュースを依頼。イーノはこれを断ったが、彼らの曲を気に入っていたそうで、2曲に客演した。また、My Bloody Valentineの“Soon”(1990年)を聴いて、イーノは「ポップの新しい基準を打ち立てた」と絶賛。2017年にはケヴィン・シールズとコラボした“Only Once Away My Son”を公開して(翌年にはもう1曲を追加しEP『The Weight Of History / Only Once Away My Son』としてリリース)、イーノとMBV、双方のファンを驚愕させている。

ブライアン・イーノとケヴィン・シールズのコラボEP『Weight Of History / Only Once Away My Son』を聴く

イーノがプロデュースしたアルバムのリストを見渡すと、「メンバーに催眠をかけて録音した」というColdplay、セネガルのバーバ・マール、フェラ・クティの息子シェウン・クティ、ポール・サイモン、Underworldのカール・ハイドとのコラボ作『Someday World』(2014年)まである。ここまで幅広く、ありとあらゆるシーンと接点を持ってきた音楽家が、他にいるだろうか? 「何か新しいこと」を求めるミュージシャンにとって、それを体現し続けてきたイーノは永遠にシンボリックな存在。残された多彩で刺激的なディスコグラフィが、何より雄弁にそれを伝えてくれる。

「最初に理解できなくても、あとになってじわじわと効いてくることも多く、いつの時代も新鮮に聴こえます」(文:小山田圭吾)

高校生のときに、Bauhausがカバーしていた“Third Uncle”という曲を聴いたのが、イーノの音楽との出会いだったと思います。

しかし、それ以前にもDEVOやTalking Heads、U2やデヴィッド・ボウイなどの作品でイーノの関わった曲を耳にしていたのを知ったのは随分あとのことでした。

それ以来、30年以上イーノの作品をいろいろと聴いてきたのに、いまだにすべての作品の全貌をしっかりと把握しているとはいえませんが、好きな作品はたくさんあります。

初期の、『Here Come The Warm Jets』から『Before And After Science』までの、グラムロックの名残や、ポストパンクを予見させるような作品は大好物ですし、『Ambient 1: Music For Airports』は永遠のクラシックだと思います。

1990年代前半の、ジョン・ケールとのコラボ作品『Wrong Way Up』や、『Nerve Net』は、当時のほかの音楽とは一味違うエレクトロニクスとロックの不思議なミックスで、いま聴くととてもかっこよく聴こえます。

2000年以降の デヴィッド・バーンとのコラボレーション作品『Everything That Happens Will Happen Today』は、バーンの来日公演を観に行ったのですが本当に素晴らしいものでしたし、Underworldとのコラボ曲“Beebop Hurry”(『Athens』収録)もひさしぶりにイーノのビートミュージックが聴けて嬉しかったです。

結局どの時代のイーノにもさまざまな魅力があって、最初に聴いたときに理解できなくても、あとになってじわじわと効いてくることも多く、いつの時代も新鮮に聴こえます。

イーノはぼくの最も尊敬するアーティストの一人で、その多岐にわたった活動や、慣習に囚われない音楽やアートに対する姿勢に大きな影響を受けました。

ブライアン・イーノ、ジョン・ケール『Wrong Way Up』を聴く
ブライアン・イーノ『Nerve Net』を聴く

「イーノの音楽は、もう一歩実験的なことをしてみよう、とあと押ししてくれるような存在」(文:岩井莉子/LAUSBUB)

私がブライアン・イーノの音楽を初めて聴いたのは、中学生のときだったと思います。イーノのことを知る明確なきっかけやタイミングがあったわけではなく、好きなアーティストの対談やインタビュー記事を読むなかで、名前が多く挙げられていたことから、当時はぼんやりと「アンビエントの人」として認識していました。本格的に聴きはじめたのは、コロナ禍に入ってから、LAUSBUBの構想を練りはじめた頃です。やりたいことにあふれエネルギーを持て余す意欲的な気持ちと不安な気持ちとのギャップがイーノの音楽によって中和されていく感覚がありました。

また、一貫したコンセプトがありながらも、Roxy Music時代やソロになってからの音楽だけでなく、プロデューサーとしての仕事、ビジュアルアートに関する活動の幅広さから、知れば知るほど一言で「アンビエントの人」と紹介できなくなる点にも魅力を感じました。セカンドソロアルバムの『Taking Tiger Mountain (By Strategy)』をリリースした頃のイーノが、窓際でギターを片手にシンセをいじる写真を見て、ミニマルなホームスタジオに憧れるのと同時に、やっぱりギターとシンセどちらかではなく、両方やらないとダメだ! と思い背中を押され、現在のスタイルになることができました。

また、静けさを感じさせる音とノイズとのバランスや、クセになるベースラインなどの音楽面のみならず、ジャケットのグラフィック制作などの視覚面からも強く影響を受けています。私は、ロキシー時代からソロになってすぐの、アヴァンギャルドな要素やノイジーさも感じる『Another Green World』あたりの時代のイーノから、Clusterとのコラボレーション、アンビエントシリーズあたりが特に好きですが、近年のロジャー・イーノとの共作もお気に入りです。

LAUSBUBにとってイーノの音楽は、良いシンセサイザーの音の基準であり、また、作品を世に出す前に、もう一歩実験的なことをしてみよう、とあと押ししてくれるような存在です。京都での展示はまだ行けていませんが、イーノと同じ時代に生き、作品をリアルタイムで感じることのできる機会があることに心から感謝します。

Cluster、ブライアン・イーノの『Cluster & Eno』を聴く

「そのときぼくはアンビエントミュージックを「感じる」ことができた。感じられないと、何もわかるわけないと思った」(文:小林祐介/THE NOVEMBERS、THE SPELLBOUND)

10代から20代にかけて、リアルタイムの音楽体験に加え過去のアーカイブを遡る・ピックアップすることで、ぼくの音楽的ルーツは出来上がっていきました。主にはインターネット、ときには雑誌やテレビやラジオ、そして音楽に詳しい友人たちによって、さまざまなアーティストや作品と出会いました。

ブライアン・イーノのことは大好きなU2やTalking HeadsやUltravoxのプロデューサーとして知りましたが、後にデヴィッド・ボウイの「ベルリン三部作」を手がけていることを知り完璧にリスペクトするに至り、彼自身の作品も聴くようになりました。しかし名盤とおすすめされた作品のいわゆるアンビエントミュージック自体にまったくハマることができずに、しばらくはCD棚に飾ってあるだけになりました。

THE NOVEMBERSでデビューする21歳くらいの頃に『No New York』(1978年発売のコンピレーションアルバム)という作品を友人に貸してもらい、ものすごく影響を受けました。そしてそのコンピレーションの立案・プロデューサーがあのブライアン・イーノだと知り、さらにリスペクトするに至るも、やはり彼の作品にはハマれずにいました。

当時、とことんソリッドなもの、ラウドなもの、過激なもの、圧倒するような音圧感やエモーショナルさ、高らかに歌い上げるメロディーや叫びがあるものが大好きだったのもあり、どういう流儀でブライアン・イーノの作品を楽しめば良いのかまったくわからなかったんです。でも、周りのみんながブライアン・イーノの良さを語り合っているのに張り合って「わかる。わかるわぁ。俺はあの数秒の無音にバラードを感じたよ」みたいなことを真顔で言ってました、ごめんなさい。

ちなみにぼくは1985年生まれですが、その前後1970〜80年代くらいのニューウェイブ、ポストパンク、ニューロマンティック、グラム、ゴス、インダストリアル、ポジパン、ネオアコ、などの海外の音楽に多大な影響を受け、主にはそういった音楽を熱狂的に漁っていました。

そのなかでもRoxy Musicは大好きなグループの一つだったのですが、その初期に在籍していた「やたら存在感のある奇妙なルックスのメンバー」が実はブライアン・イーノだったことを25歳くらいの頃に知り再びリスペクトを高々と積み上げました。Roxy Musicのライブ映像や写真でとりわけ目を引く宇宙人のような悪魔のようなそのメンバーをすごくかっこいいと思っていたんです。

「ああ、また聴いてみたいな……でもまたわからなかったら嫌だな」という相反する感情を抱えていたなかでぼくはたまたま一冊の本に出会います。

「極端に言えば、絵や音楽を、理解するとかしないとかいうのが、もう間違っているのです。先ず、何を措いても、見ることです。聞くことです」

「見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。……頭で考える事は難しいかも知れないし、考えるのには努力がいるが、見たり聴いたりする事に何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです」

「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心のなかでお喋りをしたのです」

「特になんの目的もなく物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさだとか、を見るという事、謂わば、ただ物を見るために物を見る、そういうふうに眼を働かすという事が、どんなに少ないかにすぐ気が附くでしょう」
- 小林秀雄 著『美を求める心』より抜粋

この本に出逢い、ぼくはあらゆるものへの眼差しや触れ方、味わい方が変わったと思います。目の前にあるものをただありのままに感じる、そういったシンプルなことをぼくはいつのまにか出来なくなっていたのかもしれません。結論を急ぎいますぐにでも「わかろうとする」ことで、どれだけの手触りや味わいを見過ごし、体験を邪魔していたのか、いまではよくわかります。

ほどなく「せっかくだから聴いたことのないブライアン・イーノのアルバムを買って聴いてみよう」と思い立ち、なんとなく手に取ったのが『The Pearl』というアルバムでした。

真綿に冷たい水がスーッと染み入っていくように、ぼくはただその作品に浸り、味わい、音楽とひとつになったような体験をしました。そのときぼくはアンビエントミュージックを「わかった」のではなく、「感じる」ことができた。感じられないと、何もわかるわけないんだなと思いました。

ハロルド・バッド、ブライアン・イーノ『The Pearl』を聴く
イベント情報
『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』

2022年6月3日(金)〜9月3日(土)
会場:京都府 京都中央信用金庫 旧厚生センター
リリース情報
ブライアン・イーノ
『FOREVERANDEVERNOMORE』(CD)


2022年10月14日(金)発売
価格:3,490円(税込)
480-1377

1. Who Gives a Thought
2. We Let It In
3. Icarus or Bleriot
4. Garden of Stars
5. Inclusion
6. There Were Bells
7. Sherry
8. I’m Hardly Me
9. These Small Noises
10. Making Gardens Out of Silence
プロフィール
荒野政寿 (あらの まさとし)

1988年から都内のレコードショップで勤務。1996年、シンコー・ミュージックに入社。『WOOFIN’』『THE DIG』編集部、『CROSSBEAT』編集長を経て、現在は書籍と『Jazz The New Chapter』『AOR AGE』などのムックを担当。著書に『プリンスと日本 4 EVER IN MY LIFE』(共著、小社刊)。2021年8月、『シューゲイザー・ディスク・ガイド revised edition』を編集。

小山田圭吾
小山田圭吾 (おやまだけいご)

1969年、東京都生まれ。1989年、フリッパーズ・ギターのメンバーとしてデビュー。バンド解散後、1993年、Corneliusとして活動をスタート。現在まで6枚のオリジナルアルバムをリリース。自身の活動以外にも、国内外多数のアーティストとのコラボレーションやREMIX、プロデュースなど幅広く活動中。

LAUSBUB
LAUSBUB (ラウスバブ)

2020年3月、北海道札幌市の同じ高校の軽音楽部に所属していた、岩井莉子と髙橋芽以によって結成されたニューウェーブテクノポップバンド。2021年1月18日、Twitter投稿を機に爆発的に話題を集め、ドイツの無料音楽プラットフォームSoundCloudで全世界ウィークリーチャート1位を記録。同時期に国内インディーズ音楽プラットフォームEggsでもウィークリー1位を記録。同年6月18日、初のDSP配信となる配信シングル“Telefon”をリリ ース。翌日6月19日、初の有観客イベント『OTO TO TABI in GREEN(札幌芸術の森)』出演。初の配信・有観客公演が続き、SNSでは反響多数。2022年1月、北海電気工事(株)のTVCM「現場deテクノ」篇の楽曲制作を担当。その話題性のみならず、本格的な音楽性からミュージシャン、音楽ファン、各メディアからの注目を集めている。

小林祐介
小林祐介 (こばやしゆうすけ)

4人組オルタナティブロックバンドTHE NOVEMBERSのフロントマン。2007年UK.PROJECTよりデビュー。2013年に自らのレーベルMERZ(メルツ)を立ち上げ、コンスタントに作品をリリース。FUJI ROCK FESTIVALやROCK IN JAPAN FESTIVALなどをはじめ数々の国内大型フェスへ出演。RIDE、Television、Spiritualized、Sonic Boom、Mystery Jetsなど海外アーティストとも多数共演。2021年BOOM BOOM SATELLITES中野雅之とともにTHE SPELLBOUNDとしても活動を開始する。



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「Kompass」は、ネットメディア黎明期よりカルチャー情報を紹介してきたCINRA.NETと、音楽ストリーミングサービスの代表格Spotifyが共同で立ち上げた音楽ガイドマガジンです。ストリーミングサービスの登場によって、膨大な音楽ライブラリにアクセスできるようになった現代。音楽の大海原に漕ぎだす音楽ファンが、音楽を主体的に楽しみ、人生の1曲に出会うガイドになるようなメディアを目指し、リスニング体験を交えながら音楽の面白さを紹介しています。

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